このパラドクスを前提とすれば、書物とハイパーテクストが学知や現実を指し示すことは、およそ有りそうも無い。学知や現実の正統性や根拠を問おうとすれば、終わりなき「負担免除」の追求という逆説的な負担を強いられる。我々の考察との関連で言えば、この無限後退は<宗教の機能的等価物としてのデザイン>によって、処理することができる。しかしながら、まさにこのパラドクスに向き合うことによって、ハイパーメディアへの活路が見出される。ボルツの言葉をもう一度引用しておくならば、「ハイパーテクストについて語るのではなく、ハイパーメディアについて語ってこそ意味がある」[1]のだ。
たとえばトーマス・デファンティらによって開発された「洞窟型自動仮想環境(CAVE)」は、サラウンド・スクリーンとサラウンド・サウンド・システムによって、視聴覚的な没入感を構成可能としている。1辺が10フィートある立方体の室内には、壁に3Dコンピュータ・グラフィックスが投影されている。「CAVE」は、ユーザーの頭と手の動きを追跡して正確な立体画像を生成する。ユーザーは、軽量のシャッターグラスを通して、スクリーンに映された光景を立体視することができる。実際にその世界を探検することもできる。ワンドと呼ばれるユーザー・インターフェイスを利用すれば、その世界に存在する仮想物体を掴み取ることもできる。複数のユーザーが同一の「CAVE」に没入すれば、同一の仮想空間を共有することさえできる[2]。
メディアに入室することで「没入感」を獲得する方法とは別に、頭部に被せることで三次元的な仮想空間への没入を可能とするメディアもある。たとえば、イヴァン・サザーランドが設計した「ヘッド・マウンテッド・ディスプレイ(HMD)」には、ユーザーの動作を追跡するセンサーが内蔵されている。内部のアーキテクチャは、ユーザーの身体の一挙一動を解析している。ユーザーの視点や耳の位置が変わった場合、アーキテクチャがその位置に合致した画像や音声を即時に計算する。これにより、ユーザーは現実の物理的空間上で仮想体験に没入することが可能になるのである。
事例は尽きない。三次元的な聴覚空間を媒体する「ハイファイステレオ装置」を利用すれば、聴覚的な没入感を構成できる。立体視を媒体する「マジック・アイ」や「ランダムドット・ステレオグラム」を応用すれば、視覚的な没入感も構成できる。こうしたメディアは、ユーザーと技術の「双方向性」を構成することで、より濃密な没入感の形式化を可能としている。ここで重要となる「双方向性とは、ユーザーの身体の向きや目線の変化に応じて、与えられる仮想環境の情報の視点が変化することを言う。没入感と双方向性を維持するためには、ユーザーに与える情報をたえず更新することが必要である」[3]。
たとえば「Youtube」のような「動画配信サイト」の閲覧者は、トラフィックの加算と同時に止め処無く押し寄せて来る個々の画像の全てに対して、そのリアリティを詳細に観察している訳ではない。真のリアルを決定するためには、決定前提が必要だ。だが、決定前提を決定するためにもまた決定前提が必要となる。しかしながら、<決定前提を決定するための決定前提>が真のリアルに依拠していない限り、我々は永久に真のリアルを決定付けることはできない。虚構を基盤に認識された現実は、やはり虚構なのである。しかし閲覧者は、あくまでもその動画にリアリティを感じる。「アクチュアル化に見せ掛ける可視化、すなわち「擬制的アクチュアル化」とこれによりアクチュアルであるかのように生成される可視的ヴァーチャルが、ヴァーチャルの本質だといえる」[5]のである。
こうしたメディア現実は、真の現実を遡及する負担を免除してくれる。「没入感」に浸るユーザーたちは、もはや知を断念して構わない。<宗教の機能的等価物としてのデザイン>は、もはや平面的なテクスト上のみならず、立体的なサイバースペース上でも顕在化することになる。だから魔術が学術の「負担免除」として機能するというのは、机上の空論から脱却している。「見ることは脱魔術化をはかるとともに、再び物事を魔術化する『再魔術化』というまったく正反対の過程を構成することにもなるのであり、しかも、この視覚における再魔術化に明らかに科学が加担し、再魔術化を合理的に正当化するという事態を生み出しているのである」[6]。
上記に例示したようなメディア現実の技術は、あくまで無意識的に作動する身体の感覚器官に照準を合わせている。たとえば各種のセンサーやディスプレイは、嗅覚や味覚などといった化学物質を媒体とした代謝系の関係を捨象している。一方で、視覚や聴覚、とりわけ進化史上最も後に発達した視覚の機能が、一挙に言及されている。「『視る』とは、生物体というハードウェアのなかで、形態を演算することである。それゆえ、人は自らのなかを見ること、『見ること』が機能する仕組みを見ることはできない。画像を理解する仕組みそのものはブラックボックスなのだ。それゆえ、画像の意味論は技術的には構成できず、コンピュータは画像を理解することはできない。しかし、それでも画像を作りだすことは可能なのだ。人間は一秒に二十五の画像を見ると、それがその場で動いているように知覚し、二万ヘルツまでの音を聞く。ゆえに映像と音声は数値化できる」[8]。
以上のような技術が可能とする「デザイン」は、間もなく知識社会という名の「無知社会」を先導することになるだろう。我々は、現実に無知で構わなくなる。虚構に没入して良いのだ。何故なら現実化の追及は、逆説的にも虚構化を招いてしまうからである。トランス・ヒューマニストのニック・ボストロムが提唱する「シミュレーテッド・リアリティ」[9]は、無論世界の外部環境の実在を前提とするものであった。しかしメディア現実においては、この「シミュレーテッド・リアリティ」という形式が、<メディア現実という形式>の内側へ代数学的に再参入されることになる[10]。虚構の現実化としての現実は、直に我々の日常生活にも浸透してくるはずだ。
[2] ただし、能動的に参加できるのは一人だけで、残りの者たちはその一人が形成する仮想空間を追認する側となる。
[3] マイケル・ハイム(著)、小沢元彦(訳)『バーチャル・リアリズム 自然とサイバースペースの共存』三交社(2004)、p14を参照。
[4] ノルベルト・ボルツ (著)、山本尤 (訳)『仮象小史―古代からコンピュータ時代まで』法政大学出版局(1999)、p133を参照。
[5] 北澤裕(著)『視覚とヴァーチャルな世界 -コロンブスからポストヒューマンへ』世界思想社(2005)、p161を参照。
[6] 同上、p281を参照。
[7] ジョージ・レイコフ(著)、マーク・ジョンソン(著)、計見一雄(訳)『肉中の哲学 肉体を具有したマインドが西洋の思考に挑戦する』哲学書房(2004)、p29を参照。
[8] ノルベルト・ボルツ(著)、識名章喜(訳)、足立典子(訳)『グーテンベルク銀河系の終焉』法政大学出版局(1999)、p174を参照。
[9] Bostrom, Nick (2002) Are You Living in a Computer Simulation? Philosophical Quarterly, Vol. 53, No. 211, pp. 243-255, URL:http://www.simulation-argument.com/simulation.html, 閲覧時間:2008/04/13 18:28。
[10] 形式の形式への再参入については、以下の文献を参照。
ニクラス・ルーマン(著)、佐藤勉(訳)『社会システム理論(上)』恒星社厚生閣(1993)、pp92-103、及び、ニクラス・ルーマン(著)馬場靖雄(訳)『社会の芸術』法政大学出版局(2004)、pp167-174、ニクラス・ルーマン(著)、村上淳一(訳)『ポストヒューマンの人間論―[後期ルーマン論集]』東京大学出版局(2007)、pp117-135、ノルベルト・ボルツ(著)、山本尤(訳)『カオスとシミュレーション』法政大学出版局(2000)pp5-19、長岡克行 (著) 『ルーマン/社会の理論の革命』勁草書房 (2006)、pp178-184。