たとえばニクラス・ルーマンの『社会システム理論』は、書物の限界を指し示す好例である。如何なる観察もパラドクス化することを見抜いたルーマンは、常に別の区別を付与し続けることを目論んだ。それ故、ある区別から別の区別への連鎖を、度重なる再帰的記述や膨大な注釈によって結び付けようとしたのである。そして最終的には、ある書物が別の書物の「負担免除」として機能させ、かつ最後の書物が最初の書物を指し示すことで、諸書物の循環的な連鎖関係を構成するに至った。これについては、ルーマンを正統に継承するネオ・フランクフルト学派ノルベルト・ボルツが、的確に次のような分析を展開している。
「複雑で、高度に相互依存的な理論は、再帰的かつ異種間統合的に構成され、もはや系列化できないようになっている。このような理論では、複数のアプローチ・ポイントにおいて同時に反省が行われる。そして反省のアプローチはすべて、その場その場で説明されうる以上のことを前提にする。これはもはや線的には掲示できない。だからこそルーマンは先取りと遡及によって操作を行う。ルーマンの非線的理論構成が理想とするのは、一冊の本のひとつひとつの章が他の章に再び立ち現れるような構成である。しかしながら書物においてはそういうわけにはゆかないので、叙述の形式は理論の形式と矛盾する。残された手としては、読む行為において本を書き換えるよう読者にアピールするしかない。というのも、そうする以外に、一目で把握できない複雑な内容を示す方法がないからだ」[1]。だからルーマンの理論と書物の性質を理解している者は、一つの書物に没入しない。無論ルーマン信者にもならないだろう。ルーマン信者になるということは、逆説的にも、ルーマンを理解していないことになるからだ。複数人で集まり一つの書物を<輪読>している似非システム理論家たちは、文字通りミスリードしているのである。
周知のように、こうした記述形式に挑戦したのは、ルーマンだけではない。典型的なのが、ドゥルーズとガタリの『千のプラトー』[2]やダグラス・ホフスタッターの『不思議の環』[3]である。これらの書物は、どの章からも読み始めることができる。だが、そのメヴィウスのリングを想起させる非線的な記述形式は、終わりを指し示さない。こうした章立ては、集中力を持たない読者たちを、退屈にさせる。「グーテンベルク銀河系」の「文字」が既に死滅している以上、複雑な現象を活字の「文字」で記述することには限界が伴う。もし複雑な現象を「文字」で記述しようとすれば、「言葉が死んでいる」、「単子の自閉症」、「ロビンソン的な孤立」と言った具合に、複雑性に苛立つ読者たちから非難を浴びる訳だ。
かくして、彼らの挑戦は、失敗に終わった。「グーテンベルク銀河系」を土台とした「文字」が、致命的な制約となったからだ。よって、「ここからが本題である。複雑なものが言語において同時現前する問題である。理論形式という地平では、さまざまな研究の試みをいかに統合するか、という問題が焦点となり、叙述形式の地平では、線的にも循環的にもすすめられない論証、まさに<不思議の環>として手続きを踏む論証の方法をいかにテクスト化するか、という問題である」[4]。
ボルツは、書物のオルタナティヴとして、ハイパーメディアによる「知のデザイン」を提唱している。「つまり、ハイパーメディアは情報要素を脱コンテキスト化し、同時に再結合という結びつけ方のパターンを提供するのである」[7]。日本でこの「知のデザイン」の代表格として例示できるのは、後に詳述するように、「ウィキペディア日本語版」であろう。ウィキペディア(Wikipedia)とは、ウィキ(wiki)とエンサイクロペディア(Encyclopedia)から構成された造語である。ウィキとは、誰でも自由に書き換えることができるウェブ・システムである。一方のエンサイクロペディアとは、百科事典を意味する。現状、ウィキペディアは誰でも参入離脱可能な多機能型のフリー百科事典として位置付けされている。「ウィキペディア日本語版」の管理者である吉沢英明によれば、ウィキペディアの理念は「信頼されるフリーな百科事典を――それも、質も量も史上最大の百科事典を創り上げること」であると言う[8]。ボルツによれば、「グーテンベルク銀河系の終焉」以降、「ウィキペディア日本語版」のようなハイパーテクストが活字出版の書物を代価するメディアとなったのである。
したがって、活字出版から脱却したハイパーテクストは、挑戦的なまでに時間的な変異性を獲得する。たとえそのハイパーテクスト・ドキュメントがパラドクス化したとしても、直ぐにリアルタイムでそのテクストをリニューアルすることが可能になる。ハイパーテクストの記述者は、その時点で全ての事柄を記述する必要は無い。その必然性は無いからだ。記述者は、根拠付けの無限後退から解放されている。ハイパーテクストのリアルタイムの更新が、絶えず既存のテクストを脱パラドクス化していくことを可能にしているのである。
つまり「間テクスト性」が可能とするのは、あるウェブページで生じたパラドクスを別のウェブページを指し示すことにより隠蔽する脱パラドクス化なのだ。あるウェブページの記述者は、不可避的にパラドクスに直面する。だから記述者は、アンカーリンクを貼るのである。別のウェブページを発見することで、記述者は既存のウェブページに伴ったパラドクスを隠蔽するという訳だ。
これは何も記述者に限ったことではない。閲覧者もまた、アンカーリンクを辿ることで、パラドクスの隠蔽と発見を連続させる。単一のウェブページを観察しているだけでは、そのウェブページの真偽や出典などの根拠を問わなければならない。だが既に述べたように、根拠の追求はパラドクスを招く。だから閲覧者は、そのウェブページに貼られているアンカーリンク先のウェブページを発見することで、この無限後退的なパラドクスを隠蔽するのである。だからもしソーシャル・ブックマークが役立つとすれば、それは見物人のコメントではなく、タグや関連記事のメディア(媒質)としての機能なのだ。ハイパーテクストの記述者にそのテクストの根拠を問い続ける振る舞いは、もはや救い様の無いほど馬鹿げた欺瞞に過ぎない。
<グーテンベルク銀河系>の活字出版では、こうしたリアルタイムの脱パラドクス化は無理難題の「負担免除」であった。「なぜなら、書物という形式においては、ひとつのテクストを、選びとられた読み方に応じて多様にアレンジすることなどできないからだ」[11]。図書館のユーザーが一つの書物のパラドクスを隠蔽するためには、別の書物を参照しなければならない。これを繰り返していけば、やがてその図書館が用意した全ての書物でパラドクスを発見することになるだろう。だとすれば、ユーザーは別の図書館を参照しなければならない。だがこの取り組みを実施するとなると、今度は時・空間的なコストが伴う。しかしハイパーテクストにおいては、参照にも発信にもさしてコストは掛からない。こうした背景から、ハイパーテクストは、書物を上回る。
[2] ジル・ドゥルーズ (著)、フェリックス・ガタリ (著)、宇野邦一 (訳)、田中敏彦 (訳)、小沢秋広 (訳)『千のプラトー―資本主義と分裂症』河出書房新社 (1994)を参照。
[3] ダグラス・R. ホフスタッター (著)、野崎昭弘 他 (訳)『ゲーデル、エッシャー、バッハ―あるいは不思議の環 20周年記念版』白揚社 (2005)を参照。
[4] ノルベルト・ボルツ(著)、識名章喜(訳)、足立典子(訳)『グーテンベルク銀河系の終焉 -新しいコミュニケーションのすがた』法政大学出版局(1999)、p223を参照。
[5] ノルベルト・ボルツ (著)、識名章喜 (訳)、足立典子 (訳) 『グーテンベルク銀河系の終焉―新しいコミュニケーションのすがた』法政大学出版局 (1999)、p217を参照。
[6] ノルベルト・ボルツ(著)、識名章喜(訳)、足立典子(訳)『グーテンベルク銀河系の終焉 -新しいコミュニケーションのすがた』法政大学出版局(1999)、p120を参照。
[7] ノルベルト・ボルツ(著)、識名章喜(訳)、足立典子(訳)『グーテンベルク銀河系の終焉 -新しいコミュニケーションのすがた』法政大学出版局(1999)、p223を参照。
[8] 吉沢英明 (著) 『Wikipedia ウィキペディア 完全活用ガイド』マックス (2006)、p6を参照。
[9] ノルベルト・ボルツ(著)、識名章喜(訳)、足立典子(訳)『グーテンベルク銀河系の終焉 -新しいコミュニケーションのすがた』法政大学出版局(1999)、p220を参照。
[10] ノルベルト・ボルツ(著)、識名章喜(訳)、足立典子(訳)『グーテンベルク銀河系の終焉 -新しいコミュニケーションのすがた』法政大学出版局(1999)、p215を参照。
[11] ノルベルト・ボルツ(著)、識名章喜(訳)、足立典子(訳)『グーテンベルク銀河系の終焉 -新しいコミュニケーションのすがた』法政大学出版局(1999)、p223を参照。