メディア現実においては、もはや哲学者が語る主体と客体の区別の実行可能性は、棄却されてしまう。主観性と客観性という区別は、ファーストオーダーの観察レベルとセカンドオーダーの観察レベルとの区別によって、「負担免除」されるに至ったからだ。人間中心主義者たちが落胆しているように、今日のメディア現実で重要となるのは、サイバネティクスとしての人間に他ならない。アナログ的なメディアが支配的であった過去においては、表象を構成する意識システムが恰も主体であるかのように思われた。しかし、最新のデジタル的なメディアでは、「I/O」が表象の構成を「負担免除」する。ヘーゲルが読み解いた「精神」も、今ではプログラムの機能的等価物に過ぎない。ヴァーチャル・リアリストのマイケル・ハイムが主張しているように、表象を構成する主役だった意識システムは、メディアが指し示した現実によって「没入感」に浸るだけで満足するのだ。「没入感とは、外界から感覚器官に入ってくる情報を遮断され、代わりに仮想世界についての情報を与えられたユーザーが、実際にいる場所とは別の場所にいるように感じることである」[3]。
実はこの知識社会という名の無知社会は、先に取り上げた「没入感」と密接に関わっている。我々は、あるメディアが構成した現実に没入するからこそ、何かを見落とすのである。「没入感」に浸るユーザーは、自らが没入する仮想世界の外部環境に無知である。知る由も無いのだ。ユーザーに対してデザイナーは、ユーザーが没入する仮想世界とその外部環境とを区別することで、メディア現実を「デザイン」している。しかしながらデザイナーが利用するアーキテクチャやプラットフォームは、既に別のデザイナーによって「デザイン」されたメディアだ。このアーキテクチャやプラットフォームを利用するデザイナーは、これらのツールに没入しているということになる。つまり、何かを「デザイン」するデザイナーもまた、自らが没入するメディア現実の外部環境に無知なのである。「近代の知は、『外部の』世界を引き合いに出すのではなく、別の知を引き合いに出す。私は、自分の小さな箱に明かりをともすだけで他のすべてを無視する(つまりブラックボックス化)という条件の下でのみ、知の探究者として一人前になれるのだ。そこから生まれるのは、理解しないままで利用せざるをえないような知である」[4]。
[2] ノルベルト・ボルツ (著)、識名章喜 (訳)、足立典子 (訳) 『グーテンベルク銀河系の終焉―新しいコミュニケーションのすがた』法政大学出版局 (1999)、p117を参照。
[3] マイケル・ハイム(著)、小沢元彦(訳)『バーチャル・リアリズム 自然とサイバースペースの共存』三交社(2004)、p14を参照。
[4] ノルベルト・ボルツ(著)、村上淳一(訳)『意味に餓える社会』東京大学出版会(1998)、p52を参照。