ポスト・ヒューマンの魔術師

「自称人間」の時代からポスト・ヒューマンの時代へ。

知識社会という名の「無知社会」

前のページへ目次へ次のページへ

概要

 知識社会は、無知社会である。メディア現実では、学術と魔術機能的に代価可能な等価物となる。<宗教の機能的等価物としてのデザイン>が必要となるのだ。

メディア現実における情報と知識の処遇

 グレゴリー・ベイトソンが定式化した差異を構成する差異としての情報[1]は、世界を二進法的に観察する形式として役立っていた。これは、観察者が既に十分に圧縮された情報の意味を再認することを前提としている。しかし、この圧縮から再認の過程において暗黙の前提となっているのは、そこに言語というメディアが構成されているということである。この点でフロンティアのメディアは、従来の情報理論では説明の付かない現象に対応することができている。すなわち、最新のメディアは、情報を確率論的な不確実性の状態でデジタル化することが可能なのだ[2]。こうしたメディアを背景にすれば、諸現実は様々な形式を採ったデータベースに過ぎないのである。

 メディア現実においては、もはや哲学者が語る主体と客体の区別の実行可能性は、棄却されてしまう。主観性と客観性という区別は、ファーストオーダーの観察レベルとセカンドオーダーの観察レベルとの区別によって、「負担免除」されるに至ったからだ。人間中心主義者たちが落胆しているように、今日のメディア現実で重要となるのは、サイバネティクスとしての人間に他ならない。アナログ的なメディアが支配的であった過去においては、表象を構成する意識システムが恰も主体であるかのように思われた。しかし、最新のデジタル的なメディアでは、「I/O」が表象の構成を「負担免除」する。ヘーゲルが読み解いた「精神」も、今ではプログラムの機能的等価物に過ぎない。ヴァーチャル・リアリストのマイケル・ハイムが主張しているように、表象を構成する主役だった意識システムは、メディアが指し示した現実によって「没入感」に浸るだけで満足するのだ。「没入感とは、外界から感覚器官に入ってくる情報を遮断され、代わりに仮想世界についての情報を与えられたユーザーが、実際にいる場所とは別の場所にいるように感じることである」[3]。

無知社会へようこそ!

 知識社会という名目上、今後も情報や知識は量産されることになる。しかし、社会的システムに情報や知識が量産されることと、我々の意識システムが自分自身で利用できる情報や知識が増えることとは、直結していない。認知科学の実証報告が指し示すように、人間の情報収集能力や知識構成能力など、たかが知れているのだ。たとえば、専門家が量子コンピュータに準拠する知識を発達させたとしよう。専門家や知識人からすれば、知識は増えたことになる。だが、大衆やノン・エリートからすれば、それは必ずしも知識の増大とはならない。量子コンピュータがテーマ化されたことによって、大衆やノン・エリートは「量子コンピュータに関する無知」に気付く羽目になったと言った方が、むしろ適切な描写だ如何なる観察にも盲点が伴う。情報や知識が増えるということと、無知が拡大することとは、表裏一体なのである。

 実はこの知識社会という名の無知社会は、先に取り上げた「没入感」と密接に関わっている。我々は、あるメディアが構成した現実に没入するからこそ、何かを見落とすのである。「没入感」に浸るユーザーは、自らが没入する仮想世界の外部環境に無知である。知る由も無いのだ。ユーザーに対してデザイナーは、ユーザーが没入する仮想世界とその外部環境とを区別することで、メディア現実を「デザイン」している。しかしながらデザイナーが利用するアーキテクチャやプラットフォームは、既に別のデザイナーによって「デザイン」されたメディアだ。このアーキテクチャやプラットフォームを利用するデザイナーは、これらのツールに没入しているということになる。つまり、何かを「デザイン」するデザイナーもまた、自らが没入するメディア現実の外部環境に無知なのである。「近代の知は、『外部の』世界を引き合いに出すのではなく、別の知を引き合いに出す。私は、自分の小さな箱に明かりをともすだけで他のすべてを無視する(つまりブラックボックス化)という条件の下でのみ、知の探究者として一人前になれるのだ。そこから生まれるのは、理解しないままで利用せざるをえないような知である」[4]。

知識を構成する学術の「負担免除」としての魔術

 メディア論者ノルベルト・ボルツがいみじくも述べたように、メディア現実における「デザイン」もまた、宗教の機能的等価物に他ならない。デザイナーは、自らが没入するメディア現実の外部に無知であるということを作為的に等閑視することを以って、新たなメディア現実を「デザイン」するのである。無論ユーザーも、デザイナーが「デザイン」したメディア現実に没入する訳だが、その世界に外部があるなどとは、思い付きもしないだろう。作為的な教義機能は健在だ

脚注

[1]  グレゴリー・ベイトソン (著)、佐藤良明 (訳)『精神の生態学』新思索社; 改訂第2版版 (2000)を参照。

[2]  ノルベルト・ボルツ (著)、識名章喜 (訳)、足立典子 (訳) 『グーテンベルク銀河系の終焉―新しいコミュニケーションのすがた』法政大学出版局 (1999)、p117を参照。

[3]  マイケル・ハイム(著)、小沢元彦(訳)『バーチャル・リアリズム 自然とサイバースペースの共存』三交社(2004)、p14を参照。

[4]  ノルベルト・ボルツ(著)、村上淳一(訳)『意味に餓える社会』東京大学出版会(1998)、p52を参照。

前のページへ目次へ次のページへ

トラックバックのURL

このブログ記事を参照しているブログ一覧: 知識社会という名の「無知社会」

このブログ記事に対するトラックバックURL: