ポスト・ヒューマンの魔術師

「自称人間」の時代からポスト・ヒューマンの時代へ。

社会システム理論を作為的に。

 このページの主旨は、社会学者ニクラス・ルーマンが提唱した社会システム理論をテーマとしてこのウェブサイトを閲覧している皆さんに向けての、注意書きです。皆さんに注意して貰いたいことは、<単なるブロガーである私>が社会システム理論に言及しているということです。私は<作為的な>スタンスを<作為的に>選択しています。よって私の社会システム理論的なスタンスは、「一癖」あるのです。

単純思考を求める者たちの泣き寝入り

 一般的には、ルーマンの書物は難解であると言われています。その理由として挙げられるのは、ルーマンは複雑高度な現象を記述するために、高度に抽象的な記述を必要としたからです。このことに関連して、ルーマンの理論を継承するノルベルト・ボルツは、次のように分析しています。

 「複雑で、高度に相互依存的な理論は、再帰的かつ異種間統合的に構成され、もはや系列化できないようになっている。このような理論では、複数のアプローチ・ポイントにおいて同時に反省が行われる。そして反省のアプローチはすべて、その場その場で説明されうる以上のことを前提にする。これはもはや線的には掲示できない。だからこそルーマンは先取りと遡及によって操作を行う。ルーマンの非線的理論構成が理想とするのは、一冊の本のひとつひとつの章が他の章に再び立ち現れるような構成である。しかしながら書物においてはそういうわけにはゆかないので、叙述の形式は理論の形式と矛盾する。残された手としては、読む行為において本を書き換えるよう読者にアピールするしかない。というのも、そうする以外に、一目で把握できない複雑な内容を示す方法がないからだ。」(ノルベルト・ボルツ(著)、識名章喜(訳)、足立典子(訳)『グーテンベルク銀河系の終焉 -新しいコミュニケーションのすがた』法政大学出版局(1999)、p222)

 したがって、<社会システム理論的な記述>を活字化した場合、その記述内容は不可避的に難解となってしまうのです。

 僭越ながらに言わせて貰えば、ルーマンの社会システム理論を単純化することで理解を容易にしたいと願う読者が泣き寝入りするのも、無理はありません。何故なら、能力には差異があるからです。特に単純思考者たちは、複雑高度な理論を単純化させ、万人に共有させることを夢見るようですが、浅墓です。複雑高度な話し合いを徹底したいのならば、素養の低い者たちを追放しなければなりません。単純な話で事を済ませたいのならば、知識人や専門家に退室して貰う必要があります。万人に会話を共有させたいのならば、その内容は複雑にも単純にも偏ってはなりません。仮に単純思考を重視するために複雑高度な記述を軽視するというならば、それは単純思考に傾斜しているということになり、万人に共有していることにはなりません。念のため、もう一度言っておきます。能力には差異があるのです。

 上述したボルツの分析からも明らかなように、ルーマンの書物は、読者に高い素養を要求しています。特定の本だけにしがみ付くような<輪読>をしているようでは、馬鹿丸出しです。再帰的かつ多文脈的に構成された記述を読み解くためには、こちらも可能な限り再帰的かつ多文脈的に応接するしかありません。無論、複雑高度な現象を単純化することで理解を容易にしようとしたところで、複雑高度な現象それ自体を理解していることにはなりません。単純化とは、得てして人為的に施されるものです。ある人物が単純であると認識できる事柄が、別の人物には難解かもしれません。それ故、単純化の遂行は常に別様にもあり得る不確実な代物となります。仮に複雑高度な理論を単純化したとすれば、単純化した理論を理解している読者は、単純化する以前の複雑高度な理論を理解している読者に比して、多くのことを見落としていることにもなります。だからこそ、次のような見解に辿り着くことは不思議なことではないのです。

 「システム理論は敏感な人間をますます敏感にするツールだ」(宮台真司(編)『MIYADAI.com Blog』、ページ名:「慶応SFCの井庭先生とのトークイベントの、テープ起しがあがりました(1) - MIYADAI.com Blog」、URL:http://www.miyadai.com/index.php?itemid=534、閲覧日時:2008/02/01 17:57)

 このように述べたのは、日本の社会学者として名を馳せた宮台真司氏でした。

ルーマンが多くの論客から誤解された理由

 しかし、複雑高度な理論を理解することに、必然性はありません。無理解でも構わないのです。それはボルツの次のような記述からも理解できます。

 「近代の知は、「外部の」世界を引き合いに出すのではなく、別の知を引き合いに出す。私は、自分の小さな箱に明かりをともすだけで他のすべてを無視する(つまりブラックボックス化)という条件の下でのみ、知の探究者として一人前になれるのだ。そこから生まれるのは、理解しないままで利用せざるをえないような知である。」(ノルベルト・ボルツ(著)、村上淳一(訳)『意味に餓える社会』東京大学出版会(1998)、p52)
 「選抜やきびしい選択がはじめて、データから情報を、そして情報から利用可能な「知」をつくるからだ。だから、フィルターにかけること、すなわち無視したり忘れたりすることが必要になる。」(同上、p232)。
 「われわれは学問の「真の道」を断念して、「合っている」もので満足しなければならない。合うものはすべていける。理論は真実なのではなく、隠された認識の部屋を開けるキイであり、いつでももっとよく合うキイに取り替えられるものである。だから、理論は現実に合えばよいのであり、「狷介」である必要はない。」(同上、p278)

 これらの分析を前提にすれば、ルーマンの社会システム理論が「テクノクラート重視の理論だ」とか「ワザとわかり難く書いている」と誤解されることで批判されたことは、納得できます。ジョージ・スペンサー=ブラウンの形式算法を批判しただけでルーマンの全てを批判し切れたと高を括る論客が頭角を表したとしても、私は驚かないでしょう。彼らは、社会システム理論を理解しないままで利用することで、社会システム理論それ自体の批判を成し遂げたということです。言い換えれば、メディアとしてのファーストオーダーの観察を潜在化することで、形式としてのセカンドオーダーの観察を顕在化させていたのです。つまり、ルーマンの社会システム理論を誤解しつつ批判していた論客たちは、自覚の有無を問わず、社会システム理論的な観察を遂行していた訳です。

 この関連から結び付ければ、ルーマンの社会システム理論を誤訳することで批判を成し遂げることは、必然ではありませんが可能です。たとえば、万人に共有される単純志向に終始するスタンスを「実践主義」と読み替えることで、複雑高度な<理論>を<非実践的>として排除しようとする方々がいるとすれば、逆説的にも、ルーマンの<理論>を<実践>していることになります。ルーマンが現象学的に再記述した「形式の形式への再参入」を背景とするなら、<理論>と<実践>という区別が、区別の内側で再構成されているということです。

単なるブロガーの私でも利用することはできる

 以上の方向性を前提とするならば、単なるブロガーである私でも、社会システム理論を利用することが可能であると、推測できます。たとえ私が誤解に基づいて利用していたとしても、それは社会システム理論的な「観察」に他ならないのです。

 私自身がこうしたスタンスを<作為的に>選択している以上、閲覧者の皆さんは事前に注意していた方が無難です。特に社会システム理論を勉強するためにこのウェブサイトを閲覧している皆さんは、正確な情報を入手できるとは限りません。情報は、メディアとしてのデータを潜在化させることで顕在化した人為的構成物に過ぎません。つまり情報とは、常に別様にもあり得る偶発的な産物なのです。それ故、情報をメディア化することで形式化される私と貴方の「認識」は、必然的に差異化されます。それでも、閲覧者の皆さんには自由意思があります。誤解するかもしれないという、顕在的な<リスク>に対処することは可能です。たとえばこのウェブサイト上で記載している参考文献と引用文献のページ数まで遡及することで、誤解を回避するという選択も可能です。しかし、そうした選択には常に潜在的な<危険>が発現しているということを忘れないでください。この場合に推測できる<危険>とは、書物を紐解くことに要する時間を浪費してしまうという問題です(私が選択的に推測している時点で、この<危険>は<リスク>になっているかも?)。

おわりに

 以上で、<作為的に>社会システム理論を利用している私から、閲覧者の皆さんに対する注意書きを終えます。無論、こうした注意書きを書くこともまた<作為的>であることについては、鋭い方々ならば直ぐに見抜けたでしょう。

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