ポスト・ヒューマンの魔術師

「自称人間」の時代からポスト・ヒューマンの時代へ。

具体例:批判と肯定

  1. ポスト・ヒューマンの呪文:はじめに
  2. <区別>の区別と「実行可能性」
  3. 自己言及的パラドクス化の具体例
  4. 情報による自己言及的パラドクスの展開
  5. 形式の形式への再参入
  6. 技術の魔術的「デザイン」
  7. 「デザイン」の「デザイン」
  8. ポスト・ヒューマンの呪文:結論

批判精神と肯定的精神の魔術的デザイン

 具体例として、批判精神という学知を引き合いに出そう。たとえば、「あまりにも普通のことなのでとくに意識されないが、文化批判は批判的/肯定的という区別を用いて行われるのだ」(1)。批判精神が顕在化しているということは、肯定的な精神が潜在化しているということである。しかしながら一方で、批判精神は、<批判と肯定の区別>を肯定的に利用している。つまり批判精神は、<批判と肯定の区別>を盲点として等閑視することで、批判的な観察を可能としているのだ。

 したがって、批判精神という区別が付与されている時点で未だ区別されていない盲点があるとすれば、それは<批判と肯定の区別>に他ならない。批判精神の観察者たちは、この盲点を等閑視している。逆に言えば、この盲点を等閑視することで、批判精神を可能としているのだ。仮にこの盲点に視点を移したならば、その観察者は自己言及的なパラドクスに気付くことになる。批判精神を貫くためには、<批判と肯定の区別>それ自体に対しても批判的に言及しなければならない。さもなければ、自己矛盾だ。しかし、<批判と肯定の区別>それ自体を批判したならば、その区別の内部で構成されている<批判>それ自体もまた批判したことになる。<批判>を批判するということは、対為す概念である<肯定>を肯定してしまうことになる訳だ。

 この批判と肯定の区別は、新たな区別を付与するための切り口となる。つまり、<批判と肯定の区別の肯定>と<批判と肯定の区別の批判>とを区別するのである。だが、<批判と肯定の区別の批判>に視点を移した場合、もはや批判精神それ自体が潜在化してしまう。ある領域を批判と肯定という差異で区別することそれ自体を批判するということは、区別の内部で構成されている批判と肯定も潜在化することになるからだ。それ故、<批判と肯定の区別の肯定>と<批判と肯定の区別の批判>の区別もまた、自己言及的なパラドクスに陥ることになる。

 したがって観察者は、批判精神に伴う自己言及的パラドクスを発見することで、批判精神を潜在化させることが可能になる。<批判>を潜在化させるということは、対為す概念である<肯定>を顕在化させるということだ。ここで想起されたいのは、批判精神が<批判と肯定の区別>に対する肯定的な精神を盲点として等閑視していることである。これを前提にすれば、批判精神の自己言及的パラドクス化による肯定的な精神の顕在化は、新たな区別の付与へと結び付くことになる。批判精神の観察者が批判に没入していたことに対して、今や我々は肯定的な精神へと没入することが可能になるのだ。

 批判精神に自己言及的パラドクスが伴うとすれば、肯定的な精神にもまた自己言及的パラドクスが伴う。無論、肯定の顕在化は批判の潜在化を後ろ盾とする。しかし、肯定的な精神は、批判的な精神をも肯定してしまう。批判を肯定するということは、対為す概念である批判の顕在化を呼び起こす。批判が顕在化すれば、肯定は潜在化してしまう。かくして、肯定的な精神もまた自己言及的パラドクスに陥るのである。

 批判的精神と肯定的精神に加えて、中立的精神についても言及しておこう。中立とは、<中立>の肯定に他ならない。一方、中立とは、バイアスやドグマをはじめとした<非中立>の批判に他ならない。つまり中立とは、肯定的な精神として顕在化する場合もあれば、批判的な精神として顕在化する場合もあるのだ。肯定的な中立も批判的な中立も、もはや純然たる中立ではない。中立的なコミットメントは、自己言及的パラドクスに陥るのである。

 言うなれば、これはタイミングの問題なのである。批判精神の自己言及的パラドクスを発見した時点では、観察者は批判精神に比して肯定的な精神に没入感を抱ける。逆に、肯定的な精神の自己言及的パラドクスを発見した時点では、観察者は肯定的な精神に比して批判精神に没入感を抱ける。対為す概念の一方に伴う自己言及的パラドクスを発見している時点では、他方に伴う自己言及的パラドクスは等閑視していることになる。得てして没入と盲点は、「地」と「図」の関係なのだ。

批判精神と肯定的精神の要約

 以上の考察を前提として、ケース・バイ・ケースで要約しておこう。まず批判精神の「実行可能性」が高い場合、我々は批判的な観察者が等閑視している盲点を指摘することができる。それは、<批判と肯定の区別>に対する無批判性という盲点である。我々は、こうした盲点を指摘することで、批判精神を自己言及的パラドクスに陥れることが可能になる。とはいえ、観察者が同時的に構成できる差異は、一つに限られる。それ故、ある自己言及的パラドクスの顕在化と、別の自己言及的パラドクスの潜在化は、「地」と「図」の関係である。したがって、批判精神の自己言及的パラドクスを顕在化した時点では、我々は対為す概念である肯定的な精神に伴う自己言及的パラドクスを盲点として等閑視することが可能になる。かくして我々は、肯定的な精神に対する没入感を獲得することが可能になるのだ。

 次に、逆のケースを要約しておく。肯定的な精神の「実行可能性」が高い場合、我々は肯定的な観察者が等閑視している盲点を指摘することができる。それは、肯定的精神が<批判>をも肯定してしまうという盲点である。我々は、こうした盲点を指摘することで、肯定的精神を自己言及的パラドクスに陥れることが可能になる。とはいえ、観察者が同時的に構成できる差異は、一つに限られる。それ故、ある自己言及的パラドクスの顕在化と、別の自己言及的パラドクスの潜在化は、「地」と「図」の関係である。したがって、肯定的な精神の自己言及的パラドクスを顕在化した時点では、我々は対為す概念である批判精神に伴う自己言及的パラドクスを盲点として等閑視することが可能になる。かくして我々は、批判精神に対する没入感を獲得することが可能になるのだ。

 いずれのケースでも、自己言及的パラドクスが生じた区別には、不確実性が伴う。自己言及的パラドクスに陥った区別は、もはや機能しない。それ故、自己言及的パラドクス化した区別は、複雑性を増幅させることになる。一方、新たな区別の場合は、自己言及的パラドクスが潜在化しているが故に、不確実性もまた潜在化している。新たな区別は、少なからず機能していると認識される。それ故、新たな区別は、複雑性を縮減させていると認識させる。無論、これは没入感に他ならない。「デザイン」による不確実性の吸収とは、不確実性を盲点として等閑視することを可能にするレトリックなのだ。したがって、「デザイン」が可能にする構造的複雑性に対する機能的単純化とは、縮減されていない複雑性を隠蔽する方法なのである。

注釈

  1.  ノルベルト・ボルツ(著)、村上淳一(訳)『意味に餓える社会』東京大学出版会(1998)、pp197-200を参照。


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