「デザイン」は、構造的な複雑性に対する機能的な単純化を可能にする。しかし、「デザイン」が区別から始まる以上、如何なる「デザイン」も自己言及的パラドクスに陥る。それ故、「デザイン」それ自体にもまた、縮減し切れない複雑性が伴っている。したがって、「デザイン」を「デザイン」することで、観察者はより効果的な機能的単純化を成功させることができるのだ。
「デザイン」された「デザイン」を利用する観察者は、その「デザイン」に没入している。それ故、観察者の視点からすれば、その「デザイン」に生じている自己言及的パラドクスはより潜在的である。つまり「デザイン」された「デザイン」の利用者は、盲点を等閑視していることを等閑視することで、より効果的に没入感を獲得することができるという訳だ。
具体例は身近にある。ブロガーは、プログラミング言語を知らずとも、ウェブ・デザインを敢行することができる。既に「デザイン」されたテンプレートを利用すれば、無理解のままブログを「デザイン」することができるのだ。
建築家ですら、「デザイン」された「デザイン」に依存していると言えるだろう。設計図を書く建築家は、設計図を書くためのペンの構造まで知り尽くしている訳ではない。建築家は、そうした細かいことよりも、「デザイン」された「デザイン」を利用することで次の「デザイン」へと結び付けることを考えるだろう。クリストファー・アレグザンダーが集積した253のパタン(17)も、こうした姿勢を貫いている。建築学者からすれば魔術的に思える「無名の質」も、終わりなき脱魔術化の追求という魔術的な束縛を防いでくれる形式に他ならない。パタンの記述者と読者は、「無名の質」へと没入することで、同一的な盲点と共に同一的な発見を可能にするのだ。
しかし、「無名の質」もまた自己言及的パラドクスに陥る。したがってアレグザンダーが重視するのは、視点の移動だ。アレグザンダーが読者にパタンの改良を促しているのは、そのためである。『パタン・ランゲージ』で重視されるのは、「デザイン」されたパタンに従事した上で、新たなパタンを「デザイン」することだ。既成の「デザイン」に依存するだけではなく、自ら「デザイン」する態度が重要となるのである。
これまでの考察を背景に言えば、「デザイン」が可能なのは、デザイナーに限られたことではない。学知や技術に対して無知で無理解である我々でも、「デザイン」された「デザイン」を利用することはできる。無論、既成の「デザイン」に不備があれば、それを利用する我々は被害を受けるだろう。とはいえ、「デザイン」の功罪を無限に遡及したところで、それは終わりなき脱魔術化の追求という魔術的な束縛を生み出すだけである。むしろ我々に必要となるのは、「デザイン」に無知でも利用可能になるような、単純化だ。今日の複雑高度な社会に生きる我々にとって、「どれくらい簡単に次のことができるだろうか」(18)という問いに答えてくれる「デザイン」ほど、有り難いものは無い。