ポスト・ヒューマンの魔術師

「自称人間」の時代からポスト・ヒューマンの時代へ。

技術の魔術的「デザイン」

  1. ポスト・ヒューマンの呪文:はじめに
  2. <区別>の区別と「実行可能性」
  3. 自己言及的パラドクス化の具体例
  4. 情報による自己言及的パラドクスの展開
  5. 形式の形式への再参入
  6. 技術の魔術的「デザイン」
  7. 「デザイン」の「デザイン」
  8. ポスト・ヒューマンの呪文:結論

学術の機能的等価物としての技術

 これまでの考察では、学知に伴う構造的な複雑性を機能的に単純化する方策を提示してきた。その方策は、<宗教の機能的等価物としてのデザイン>である。差異理論的に言えば、「デザイン」は新たな区別を付与することから始まる。新たな区別を付与するためには、次のような自己言及的パラドクスの発見と隠蔽を遂行しなければならない。まず、Aに没入している観察者は、非Aを盲点として等閑視している。没入と盲点は「地」と「図」の関係だ。一方が顕在化すれば、他方は潜在化する。したがって、Aに伴う自己言及的パラドクスを発見することで、Aに没入していた観察者は非Aへと観点を移動させることが可能になる。この時、観察者は非Aに伴う自己言及的パラドクスを発見することができない。と言うのも、もはや観察者は非Aに没入しているからだ。非Aに没入している観察者は、没入している時点で同時的にその自己言及的パラドクスを観察することはできない。したがって、Aの自己言及的パラドクスが顕在化した時点では、非Aの自己言及的パラドクスは潜在化する。それ故観察者は、非Aに対する没入感を獲得することができるのだ。

 一方、区別は常に別様にもあり得る。Aと非Aの区別に言及し続けることに、必然性は無い。むしろ、同一の区別に言及し続けることにも自己言及的パラドクスが伴うはずだ。したがって観察者には、別様にもあり得る区別へと観点を移動させる必要がある。とはいえ、Aと非Aの区別に没入している観察者には、その自己言及的パラドクスを認知することができない。観察者がその観点を移動させるためには、没入対象に差異を構成させる区別が必要だ。この要求に応えるのが、情報である。情報は、観察対象や認識対象における差異を生み出す差異である。情報を受信した観察者は、Aと非Aの区別以外にもBと非Bの区別もあり得るということを認知する。この場合の情報は、<Aと非Aの区別>と<Bと非Bの区別>を区別しているのだ。この時、観察者は<Aと非Aの区別>の自己言及的パラドクスを顕在化させることになる。そして同時的に、<Bと非Bの区別>の自己言及的パラドクスを潜在化させることになる。かくして観察者は、没入対象を変更することが可能になる訳だ。

 これは、あくまで学術に対する魔術的「デザイン」である。しかしこの魔術は、学術と機能的に代価可能な等価物である技術に対しても応用することが可能だ。ボルツの技術論をもう一度引用しておこう。「もはや根拠づける必要なしに円滑に遂行されるということが、技術的仕組みの魅力に他ならない。討議するまでもないのだ。技術とは、さまざまの原因と結果が織りなす複雑性をうまく縮減するものである」(13)。「デザインとは技術の解釈学だ、と言うこともできよう」(14)

技術における自己言及的パラドクス

 技術を利用することそれ自体は、構造的複雑性を原因と結果という機能で縮減することに結び付く。つまり、技術が付与する<原因と結果の区別>は、それ自体「デザイン」なのだ。とはいえ、原因と結果という区別に没入しているユーザーは、直ちに自己言及的パラドクスに陥る。まず、原因を観察するユーザーは、原因の原因の観察を必要とする。たとえば、「キーボードを打つ」という原因が、「画面に文字が入力される」という結果を構成する。だがユーザーには、こうした原因と結果に連続性を見出せない。「キーボードを打つ」と「画面に文字が入力される」ことについて、その原因を知ることができない。原因の原因を知るためには、原因の原因の原因まで知る必要がある。したがって原因は、無限後退としての自己言及的パラドクスを構成するのである。一方の結果についても、自己言及的パラドクスを伴っている。ある結果を知った観察者でも、結果の結果を知ることはできない。ある結果は、別の結果の原因である可能性もある。つまり<原因としての>結果という自己言及的パラドクスが生じているのだ。

 こうした原因と結果の自己言及的パラドクスと同様に、<原因と結果の区別>への没入にもまた自己言及的パラドクスが伴う。それは、情報が観察と認識の差異を生み出すことで顕在化する。たとえば、新たな技術に関する情報を受信したユーザーは、従来の技術における<原因と結果の区別>に伴った自己言及的パラドクスを顕在化させることが可能になる。それと同時に、新たな技術における<原因と結果の区別>に伴っている自己言及的パラドクスを潜在化させることが可能になる。つまり情報は、技術に伴う自己言及的パラドクスを展開させることが可能なのだ。

別様にもあり得る技術の魔術

 既に述べたように、技術それ自体は<原因と結果の区別>を付与することが可能であるために、「デザイン」として機能する。たとえば監視カメラは、「犯罪風景のデータベース」が指し示した原因から「犯罪者の特定」という結果を構成する。監視カメラの機能に没入している観察者は、「犯罪風景のデータベース」に伴う目的外使用可能性を盲点として等閑視することができる(15)。したがって、技術の魔術的「デザイン」は、魔術と機能的に等価である技術それ自体でも可能なのだ。言い換えれば、テクニカル・フィックスは、事前の技術の構造的な複雑性を事後の技術が機能的に単純化する状況を言い表している。

 しかし、テクニカル・フィックスもまた、<技術的問題の技術的解決>という自己言及的パラドクスに直面している。したがって技術には、学術や魔術による「デザイン」も必要となる。たとえば学術が用意する統計ならば、世界のカオス的な状況を数値として選択的に単純化する魔術として機能するだろう。また広告宣伝ならば、統計というデータから形式化される情報を利用することで、ユーザーの没入対象を変化させることが可能になる。その名の通り、宣伝で活用されている単純提示効果は、機能的な単純化を可能にする。閾下知覚を伴わせることで、新たな区別への没入を差し向ける「デザイン」となる訳だ。下條信輔が述べたように、「視知覚情報処理の大部分は、われわれの意識にとってアクセス不能であり、われわれはたかだかその処理の結果(=出力)を知覚現象として経験するにすぎない」(16)。これを前提にすれば、我々の技術に対する無知を癒す「デザイン」は、無数に遍在している。技術それ自体に伴う自己言及的パラドクスは、統計や宣伝の巧みな「デザイン」によって、隠蔽されることになる。こうした状況を背景に言えば、もはや我々には、技術を理解する必要は無い。「デザイン」を介して利用できれば、それで良いのである。

注釈

  1. ノルベルト・ボルツ(著)、村上淳一(訳)『意味に餓える社会』東京大学出版会(1998)、p53を参照。
  2. ノルベルト・ボルツ(著)、村上淳一(訳)『世界コミュニケーション』東京大学出版会(2002)、p217を参照。
  3. 監視データの目的外使用可能性を指摘すれば、監視は自己言及的パラドクスに陥る。と言うのも、監視の目的外使用可能性を防ぐためには、監視者を監視する必要があるからだ。しかし、監視者を監視する監視者もまた、監視データの目的外使用が可能である。したがって、監視者を監視する監視者を監視する監視者を設置しなければならない。かくして監視は、無限遡行に陥る。
  4. 下條 信輔 (著)『サブリミナル・マインド 潜在的人間観のゆくえ』中央公論社 (1996)、p169を参照。

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