形式の形式への再参入
- ポスト・ヒューマンの呪文:はじめに
- <区別>の区別と「実行可能性」
- 自己言及的パラドクス化の具体例
- 情報による自己言及的パラドクスの展開
- 形式の形式への再参入
- 技術の魔術的「デザイン」
- 「デザイン」の「デザイン」
- ポスト・ヒューマンの呪文:結論
同一の区別への没入
Aに没入する観察者は、非Aを盲点として等閑視している。観察者は、Aを自己言及的パラドクス化することで、非Aへと観点を移動させることができる。しかし、<Aと非Aの区別>に関しても自己言及的パラドクスが伴う。とはいえ、<Aと非Aの区別>の内部で観点を移動させている観察者は、この区別に没入している。したがって、観察者がこの区別の自己言及的パラドクスを発見するためには、この区別が別様にもあり得るという可能性を認知しなければならない。そのために必要となるのが、情報である。観察者は、情報に依拠することで区別が別様にもあり得るということを認知する。それにより、<Aと非Aの区別>の自己言及的パラドクスを顕在化させ、<Bと非Bの区別>の自己言及的パラドクスを潜在化させることが可能になる。かくして観察者は、<Bと非Bの区別>に没入することが可能になる。つまり、この区別の内部で観点を移動させることが可能になるのだ。
しかし、この説明だけでは、観察者が自己言及的パラドクスに陥った区別に尚没入するという事態に言及したことにならない。たとえば、クオリア問題の自己言及的パラドクスを発見した観察者が、尚クオリア問題に言及し続けるというケースも、無いとは言い切れないだろう。したがって以下からは、如何にして同一の区別に没入することが可能になるのかを論じていく。
形式とメディアの形式
一連の観察において最も着目すべきことは、区別において差異を構成する「意味」に他ならない。システム理論家は、ある領域に差異を構成させる役割を持つ「意味」を「形式」と呼ぶ(6)。この<形式としての意味>が構成する原初的な差異は、<指示対象>と<非指示対象>における差異である。システム理論の用語を使用するならば、<指示対象>は、「圧縮」と「再認」における選択的な縮減を通じて顕在化する契機を獲得する。この時、「圧縮」は「何を<同一の意味>として選択するのか」を決定付けている(7)。そして「再認」は、「如何なる<同一の意味>を選択するのか」を決定付けている(8)。よって、<指示対象>は顕在化する可能性が高まる。逆に言えば、<非指示対象>は潜在化する可能性が高いということである。したがって、形式としての意味は、<顕在的な指示対象>と<潜在的な非指示対象>における差異を構成している(9)。
既成の形式としての意味は、既に区別された<顕在的な指示対象>に他ならない。形式が構成した<顕在的な指示対象>が、新たな形式として発現しているのである。したがって、形式としての意味は<顕在的な形式としての指示対象>と<潜在的な非指示対象>における差異を構成する。システム理論家は、この<顕在的な形式>と対為す概念である<潜在的な非指示対象>を「メディア」と名付けている(10)。このメディアとしての意味は、形式としての意味と「地」と「図」の関係を織り成す。
顕在的な形式と対為す概念であるメディアは、潜在的な対象として発現している。したがって、形式とメディアは相互依存的に並存している。つまり、形式は<顕在的な形式>と<潜在的なメディア>を区別しているのだ。しかし一方で、<顕在的な形式>は新たな<顕在的な形式>と<潜在的なメディア>における差異を構成している。つまり、顕在的な形式の内部に<顕在的な形式>が再帰的に発現しているということである。この場合、当該形式は常に次の時点において形式それ自体を指示する意味として反復的に発現することにより、「圧縮」と「再認」の対象となっている。言い換えれば形式は、自己指示的な差異の再構成を継続することで、形式として存続するのである。システム理論家は、この現象を「形式の形式への再参入」と呼ぶ(11)。
上記を前提とすれば、顕在的な形式としての指示対象は、その内部に<顕在的な形式としての指示対象>と<潜在的なメディアとしての非指示対象>を発現させている。つまり、顕在的な形式としての指示対象は、次の<顕在的な形式としての指示対象>が顕在化するための契機を構成しているのだ(12)。
形式としての同一性とメディアとしての差異
したがって、自己言及的パラドクス化した区別に尚没入することができるのは、形式の形式への再参入が遂行されているためである。顕在的な形式としての没入対象には、自己言及的パラドクスが潜在化している。自己言及的パラドクスが顕在化した場合、その没入対象は潜在化することになる。だが、ある自己言及的パラドクスの発見と別の自己言及的パラドクスの隠蔽は、「地」と「図」の関係だ。それ故、ある没入対象の潜在化と別の没入対象の顕在化もまた、「地」と「図」の関係となる。ここで想起されたいのが、自己言及的パラドクスの発見と隠蔽は、新たな区別の付与を可能にするということである。これは、顕在的な形式としての指示対象が、次の<顕在的な形式としての指示対象>が顕在化するための契機を構成していることの言い換えである。ある没入対象は、<別の没入対象>と<等閑視される盲点>を区別する形式である。そして形式としての<別の没入対象>は、またしても<別の没入対象>と<等閑視される盲点>とを区別する。したがって、自己言及的パラドクス化することで潜在化したはずの区別に尚没入することが可能になるということは、<ある没入対象>と<別の没入対象>を同一化しているということだ。つまり、形式としての<没入対象>が自己指示的な差異の再構成を継続することで、自己を存続させているのである。
如何なる意味も自己言及的パラドクス化する以上、あらゆる没入対象は常に別様の没入対象への観点移動を要求する。原理的には、<ある没入対象>と<別の没入対象>の差異は遍在している。それ故、同一化を可能にするためには、同一性を顕在化させると同時に差異を潜在化させる必要がある。したがって、情報により新たな区別の付与が可能になった場合でも、観察者には形式としての同一性を顕在化させる必要がある。同一性という情報を付与することで、差異を潜在化させるのだ。
無論、同一性も自己言及的パラドクスに陥る。それは、同一性が<同一性と差異>という差異から構成されるという逆説に基づく。とはいえ、差異もまた自己言及的パラドクスに陥る。それは、差異が非差異との差異から構成されるという逆説に基づく。したがって、観察者が同一の観点に没入するためには、絶えず形式としての同一性を顕在化させるべく新たな区別を付与し続けなければならない。
注釈
- このレポートでは、ジョージ・スペンサー=ブラウンが『形式の法則』(ジョージ・スペンサー=ブラウン、大澤真幸、宮台真司、1987) で提唱した数学的な算法よりも、スペンサー=ブラウンからニクラス・ルーマンへと受け継がれた現象学的な形式の概念を採用する。したがってこのレポートでは、「ある意味が異なる時点の異なる文脈において本来異なる」という背景を強調することになる。しばしばスペンサー=ブラウンの算法を反証することでシステム理論を反証すると誤解する論者がいるが、数学的な算法と現象学を混同してはならない。詳細は、ニクラス・ルーマン(著)、佐藤勉(訳)『社会システム理論(上)』恒星社厚生閣(1993) p93を参照。
- 「圧縮」は、ジョージ・スペンサー=ブラウンからニクラス・ルーマンへと継承された概念である。スペンサー=ブラウンが数学的に記述したことに対して、ルーマンは現象学的に再記述している。これについては、ニクラス・ルーマン(著)、佐藤勉(訳)『社会システム理論(上)』恒星社厚生閣(1993)、 p93を参照。スペンサー=ブラウンの理論については、ジョージ・スペンサー=ブラウン(著)、大澤真幸(訳)、宮台真司(訳)『形式の法則』朝日出版社(1987)を参照。
- ニクラス・ルーマン(著)、佐藤勉(訳)『社会システム理論(上)』恒星社厚生閣(1993)、 p93及び、ジョージ・スペンサー=ブラウン(著)、大澤真幸(訳)、宮台真司(訳)『形式の法則』朝日出版社(1987)を参照。
- ただし、差異の構成は区別された一方を排除する訳ではない。これについては、ニクラス・ルーマン(著)、村上淳一(訳)『ポストヒューマンの人間論―[後期ルーマン論集]』東京大学出版局(2007)、pp117-135 及び、ノルベルト・ボルツ(著)、山本尤(訳)『カオスとシミュレーション』法政大学出版局(2000)pp5-19を参照。
- メディアとしての意味の特質は、ノルベルト・ボルツの次のような言説に象徴される。すなわち「意味とは、われわれがどんな行為においても世界全体のことを思い浮かべられるための媒体に他ならない」(ノルベルト・ボルツ、村上淳一、『意味に餓える社会』、1998、p77)。このボルツの説明は、メディアとしての意味を媒体的に取り扱うことに成功した場合において、形式としての意味が顕在化するということを言い表している。
先述した通り、形式としての意味は、「圧縮」と「再認」の選択対象となることで顕在化する。これは、意味が全ての可能性を指示していることを言い表しているのではない。むしろ強調されるのは、「圧縮」と「再認」の対象とならない別様の可能性も遍在するということである。つまり、形式としての意味が顕在化するということは、当該形式の顕在化と同時的に潜在化する別様の諸可能性もあり得るということである。無論、ある意味を顕在化する時点において潜在化される別の意味を思慮の範疇に留めれば、ある意味の顕在化において阻害となる。我々は、あくまで別の潜在的な意味を盲点として等閑視することを前提とした上で、ある意味の顕在化を可能としているのである。しかし、こうした潜在性を常に度外視し続けてしまえば、形式を顕在化させることは不可能となる。したがって、形式としての意味を顕在化するためには、潜在的な別様なる諸可能性が必要不可欠となる。この潜在的な別様なる諸可能性を、我々は「メディア」と呼ぶことにする。
- この「形式の形式への再参入」には、<顕在的な形式>の内部に<潜在的なメディア>が発現しているというパラドクスが展開されている。と言うのも、ある形式において<潜在的なメディア>として位置付けられている対象が、別の形式においては<顕在的な形式>として位置付けられる可能性を示唆しているからだ。このことに関しては、ニクラス・ルーマン(著)馬場靖雄(訳)『社会の芸術』法政大学出版局(2004)、pp167-174、長岡克行 (著) 『ルーマン/社会の理論の革命』勁草書房 (2006)、pp178-184、ニクラス・ルーマン(著)、村上淳一(訳)『ポストヒューマンの人間論―[後期ルーマン論集]』東京大学出版局(2007)、pp117-135を参照。
- 一方、「形式の形式への再参入」の概念と同時並行的に、我々は次のようなアクチュアリティにも敏感にならなければならない。すなわち、ある形式としての意味は、常に次の<形式としての意味>における継起となり得るということである。と言うのも、顕在的な形式としての意味は、常にその内部に<顕在的な形式としての意味>と<潜在的なメディアとしての意味>を分出させる差異を構成しているからだ。したがって、我々は大澤真幸による次のような説明を追認することになる。すなわち、「自己指示的な形式をとった表現が指し示す<意味>は、それゆえ、「同一性(ある特定の値=意味であること)と非同一性(どの特定の値=意味でもないこと)の同一性」とでも規定するよりほかない特殊な様態において、その同一性を保持している」(大澤真幸、『行為の代数学 スペンサー=ブラウンから社会システム論へ』、1999、p94)。これらの考察を前提に言えば、形式の形式への再参入は、自己指示的な形式を追認しているということになる。
前のページへ-目次へ-次のページへ