周知のように、グレゴリー・ベイトソンは情報を「差異を生み出す差異」として定義した(4)。情報は、それ自体が差異である。情報の対為す概念は、データに他ならない(5)。情報が差異を生み出す一方で、データは同一性を保持する。たとえば、出版物に記録されているデータは、出版物が改正されない限り、同一のままだ。だが、出版物から読み取れる情報は、観察者次第で異なる。同一のデータを観察しているとしても、同一の情報を認識するとは限らない。既に述べたように、我々の意識は単純性に没入するために、情報の複雑性を選択的に縮減することになる。しかし、まさにその選択性が観察者次第で異なるのである。したがって、システム理論の視座から言えるのは、情報は観察や認識の差異を生み出す差異であるということになる。
これを前提に言えば、情報は、区別から出発する「デザイン」を遂行する際に重要な位置に置かれる。これまでの考察を念頭に置く限り、新たな区別を付与するためには、自己言及的パラドクスを指摘することが効果的であるということであった。しかし、対為す概念である二つの意味は、共に自己言及的パラドクスに陥る可能性を内在させている。だが、同時的に二つの意味が自己言及的パラドクスを発現させていることに、観察者は気付けない。観察者が没入できる対象が一つであるが故に、一方の自己言及的パラドクスのみが発見されるのである。それ故、ある時点では一方の自己言及的パラドクスが認識されることになり、別の時点では他方の自己言及的パラドクスが認識されることになる。つまり、一つの区別に没入している観察者は、区別の内部において永久に視点の移動を続けることになる。まずAを認識する。次に非Aを認識する。次にまたAを認識する。そしてまた非Aを認識する。かくして観察は、循環的に連続していくのだ。
しかしこれは、同一の区別への没入に他ならない。同一の区別への没入があり得るということは、別の区別が盲点として等閑視されているということだ。区別と区別の間にも差異が構成されているとすれば、同一の区別へ没入することにもまた自己言及的パラドクスが伴う可能性があるということになる。したがって観察者は、盲点として等閑視している別の区別へと視点を移動させなければならない。
ここで引き合いに出されるのが、情報である。上述した通り、情報は観察や認識の差異を生み出す差異だ。したがって情報は、ある区別への没入と別の区別への没入を差異化することが可能である。つまり、Aと非Aの区別に没入していた観察者は、情報を認知することで、<Aと非Aの区別>と<Bと非Bの区別>とを区別することが可能になるのである。この区別が付与された時点では、観察者は既に<Aと非Aの区別>に伴う自己言及的パラドクスを観察することが可能になる。と言うのも、たとえ<Aと非Aの区別>が自己言及的パラドクスに陥っていたとしても、この区別しか知らない観察者は、それが通常であるかのように認識してしまうからだ。<Bと非Bの区別>と差異化されることで初めて、観察者は<Aと非Aの区別>の自己言及的パラドクスを認知することが可能になるのである。
この場合、自己言及的パラドクスに陥った<Aと非Aの区別>が潜在化することになり、<Bと非Bの区別>が顕在化することになる。この時点では、観察者は<Bと非Bの区別>における自己言及的パラドクスを認識することはできない。と言うのも、既にこの時点では、観察者は顕在化した<Bと非Bの区別>に没入しているからだ。結局情報には、観察者の没入対象を変更する機能を帯びているのである。情報を絶え間なく受信し続ける観察者は、絶えず没入対象を変更する機会を獲得するのだ。
とはいえ、没入と盲点は「地」と「図」の関係である。<Aと非Aの区別>と<Bと非Bの区別>とを区別する情報に没入した場合、情報から読み取ることができなかった潜在的なデータが盲点として等閑視されることになる。また<Bと非Bの区別>に没入した場合でも、この区別に潜在的に発現している自己言及的パラドクスが盲点として等閑視されている。したがって、より多くの情報を受信することが我々の知を拡大することに直結する訳ではない。たとえば、情報を共有することでリスクを回避しようとするリスク・コミュニケーションは、無知だ。情報により知を拡大したと自認する観察者は、同時的に無知をも拡大しているのである。