学術的な論考を目当てにこのレポートを参照されている読者には、注意して貰いたい。このレポートが言及しているのは、学術ではなく、魔術である。以下から私がテーマとして取り上げるのは、ポスト・ヒューマンが唱える「呪文」だ。この「呪文」は、全ての<現実>が破壊可能でありながらも、全ての<現実>が創造可能であるということを指し示している。この章で私が提起する結論は、「我々は何に挑戦しても無駄足に終わるのだが、だからこそ何をやっても良い」ということである。
詳しく観ていこう。前章では、ポスト・ヒューマンの文化に「デザイン」が必要であることを説明した。トランス・ヒューマニズム的な学術と技術は、終わりなき脱魔術化の追求という魔術的な束縛を生み出す。それ故、ポスト・ヒューマンは学知や技術を魔術として理解せずに利用しなければならない。そのためには、<宗教の機能的等価物としてのデザイン>により、学知と技術に伴う構造的な複雑性を機能的に単純化することが必要になる。
とはいえ、学術や技術を無理解のまま利用せざるを得ないということは、我々は無知を増大させつつ学術と技術を利用するということである。無知を解決するのではなく、無知を隠蔽しているのだ。それ故、機能的に単純化された学術と技術を利用する観察者は、その学知や技術の恩恵に没入すると同時に、盲点を等閑視する。逆に言えば、我々は盲点を等閑視することで特定の学知や技術に関する没入感を獲得しているのだ。仮に機能的な単純化が施されていない学術や技術に挑戦したとしても、その試みは直ぐに無限遡行へと陥る。得てして「デザイン」の放棄は、終わりなき脱魔術化の追求という魔術的な束縛を呼び起こすのである。
したがって、「次の問いはこうだ。どの理論デザインによれば、自分の盲目を知ることに耐えられるのか?」(1)ボルツはこの自問に対して、次のように自答する。「あるのは、より良く観察できるチャンスだけである」(2)。これは、善く言えば臨機応変であり、悪く言えば便宜主義だ。とはいえ、複雑高度で予測不可能な現実に生きる我々にとって、以前よりも見晴らしの良い場所へと観点を移させてくれる「デザイン」ほど、有り難いものは無い。「デザイン」に要請されるのは、複雑高度な理論ではなく、構造的複雑性に対する機能的単純化だ。つまり「デザイン」には、観察者が構成した没入形式に対して、より単純に没入できる方向性を指し示すことが必要になるのである。
これを前提にすれば、「より単純に没入できる方向性を指し示す」という没入形式に対して、より単純に没入できる方向性を指し示すことが、重要となる。次に没入する観点をより単純に方向付けられるように、「デザイン」するのだ。だとすれば、我々の社会に必要となるのは、単純であり、便宜的であり、無知でも構わず、理解する必要が無い、虚構を前提に成り立つ「デザイン指向」である。
したがって本章では、如何にして「デザイン」は可能なのかについて詳述していく。それにより、来るべきポスト・ヒューマニティへの方向付けに取り組みたい。