本レポートの主旨は、次の二つだ。第一に、複雑高度な科学技術が量産されるポスト・ヒューマンの文化では、無知でも無理解でも「利用」できる単純明快な科学技術が必要になるという逆接を説明することである。そして第二に、トランス・ヒューマニズムを発端とするポスト・ヒューマニティに恐怖を抱く<自称「人間」>たちの無知を癒すことである。この概要を順に観ていこう。
トランス・ヒューマニズムに代表される学術や技術の発達は、人間の対応能力を配慮せずに進化していく。そのため、こうした学術と技術は、我々の既知の領域を拡大すると同時に無知の領域をも拡大する。しかし、これは悲観視することではない。学術や技術の成果を日常的に利用する必要がある人間でも、その学術や技術を理解する必要は無いからだ。たとえば現状、コンピュータの構造を知らないユーザーでも、問題なくインターネットを利用することができる。我々がコンピュータの構造について無知で無理解だと自認するのは、あくまで<利用できない時>だけだ。逆に言えば、無知でも無理解でも、「利用」できれば気にならないということである。
したがって、ポスト・ヒューマンの文化に必要となるのは、複雑高度な学術と技術を「利用」可能にすることである。ポスト・ヒューマンが重視すべきことは、複雑高度な学術と技術を構成していくことのみではない。むしろ重要となるのは、学術や技術に伴う構造的な複雑性を機能的に単純化していくことなのである。
次に私は、<自称「人間>たちの無知を手当てしたい。本レポートで言及する<自称「人間」>とは、トランス・ヒューマニズムやポスト・ヒューマニティの活躍に憤慨する人間中心主義的なヒューマニストを言い表している。私は、<自称「人間」>たちが主張する人間性の本質というものは、何処にも存在しないということを説明することで、彼らの無知を癒していきたい。
とはいえ私は、単にポスト・ヒューマニティの流れに乗り切れない旧世界の人々に冷や水を垂らしたい訳ではない。むしろ私が主張するのは、思考停止でも大丈夫だということである。複雑高度な現象に無知でも無理解でも許されるのが、ポスト・ヒューマンの文化なのだ。
ただし、そのためにはある程度の但し書きが必要となる。思考停止でも問題は無いのだが、いわゆる<馬鹿の一つ覚え>では有害な結果を生み出してしまう。ポスト・ヒューマンは、どのようなライフ・スタイルを選ぼうとも無論自由なのだが、その選択が別様にもあり得るということを常に念頭に置かなければならない。さもなければ、およそ信頼するに値しない<自称「人間」>たちによって、都合良く「利用」されてしまうのだ。
最後に注意しておきたいのは、本文が低レベルだということだ。本レポートは、大学生が記述したものである。それ故、立論のレベルは学部生止まりであり、記述形式も稚拙だ。本文の内容を真に受ける必要は無い。本文の挑発的な内容に何を思うかは、あくまで読者の自由裁量に委ねたい。