ポスト・ヒューマンの魔術師

「自称人間」の時代からポスト・ヒューマンの時代へ。

ポスト・ヒューマンと自称「人間」:結論

  1. ポスト・ヒューマンと自称「人間」:はじめに
  2. 単純性に没入する意識
  3. 意識を無意識的に操作する技術
  4. 学術と技術の魔術化
  5. 自己言及的パラドクス化の展開操作による「デザイン」
  6. 「動物」としての<自分>と「人間」としての<私>
  7. <自称「人間」>たちの「動物」的な政治
  8. <自称「人間」>たちの法・道徳・倫理
  9. 魔術的な没入を促す経済
  10. 動物的な、あまりに動物的な。
  11. ポスト・ヒューマンと自称「人間」:結論

結論

 仮想現実や拡張現実における脱空間的なコミュニケーションは、身体を潜在化させた。だが、身体の潜在化は、身体が顕在化するための契機だった。人格レベルではなく身体レベルで統制を図る環境管理型社会が生まれたのは、不思議なことではなかった。トランス・ヒューマニズムの学術と技術は、この延長線上にある。

 規律訓練型社会の人格レベルにおける他者信頼は、無知に晒されることになった。環境管理型社会のような身体レベルにおけるシステム信頼は、その無知を癒してくれる。バイオメトリクスやリモートセンシングを無理解のまま利用するだけで、他者が信頼できるか否かに無知であっても、社会秩序を維持できるようになるのだ。

 こうした環境管理型社会の魔術的な技術は、自称「人間」としての<私>の「欲望」ではなく、「動物」としての<自分>の「欲求」を操作することで、社会秩序を構成する。まず、環境管理型社会における魔術的な技術が、「欲求」を「デザイン」することで、「動物」としての<自分>が没入する方向性を指し示す。次に、「動物」としての<自分>が没入することで選択的に縮減された複雑性を前提に、自称「人間」としての<私>は、「欲望」を「デザイン」する。すなわち、「動物」としての<自分>が没入している方向性に依拠しつつ、自称「人間」としての<私>が没入する方向性を指し示すのだ。しかし一方で、「動物」としての<自分>は、自称「人間」としての<私>よりも早い段階で没入感を獲得している。したがって、「欲求」の「デザイン」に「実行可能性」が生じている限り、「欲望」の「デザイン」が必要となることは無い。<私>の出番は、もはやその「実行可能性」に葛藤が帯びた場合に限定されるのである。

 自称「人間」としての<私>は、葛藤が起きない限り、自覚の有無を問わず「動物」としての<自分>に従う。数多の情報や選択肢を吟味するのは、「動物」としての<自分>だ。自称「人間」としての<私>は、「動物」的にフィルタリングされたごく少数の情報や選択肢のみを事後的に吟味すれば良い。環境管理型社会では、複雑高度な事物について考える必要は無い。意識という「ユーザーイリュージョン」は、技術から無意識を介して添付される機能的な単純性のみに反応すれば良い。葛藤が生じれば、技術にクレームを発すれば良い。環境管理型社会の技術は、単純であり、便宜的であり、無知でも構わず、理解する必要が無い、虚構を前提に成り立つ「デザイン指向」を体現しているのだ。

 これを前提に言えば、ポスト・ヒューマンの課題は、既成の魔術的技術の「デザイン」による方向性に没入するだけの単なる「動物」に成り下がらないことであろう。既に述べたように、既成の「デザイン」の方向付けに没入するのみならず、自らその「デザイン」を利用した新たな「デザイン」の方向性を付与することが必要になるのだ。そのためには、我々は家畜としての振る舞いに没入するのではなく、作為的に「動物」としての<自分>を「自己家畜化」していかなければならない。

 無論これは、「あるべき社会」ではない。あくまで「あり得る社会」だ。可能であって、必然ではない。私は単に、複雑高度な話を毛嫌い単純志向で事を済ませたがる現代社会において、選択可能な<政策ポリシー>を「デザイン」しただけである。実際、このレポートの読者の中には、「動物」として単純に生きていくことに憧れを抱いた読者もいることだろう。ただし注意すべきことは、ポスト・ヒューマンは受動的に動物化されるだけの存在ではないということだ。ポスト・ヒューマンは確かに「動物」の域を超えることはできないのだが、「動物」が「動物」を家畜化することは可能だ。ポスト・ヒューマンに求められるのは、無自覚に「動物」に成り下がることではなく、<作為的に>「動物」を受け入れることなのである。

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