魔術的な没入を促す経済
- ポスト・ヒューマンと自称「人間」:はじめに
- 単純性に没入する意識
- 意識を無意識的に操作する技術
- 学術と技術の魔術化
- 自己言及的パラドクス化の展開操作による「デザイン」
- 「動物」としての<自分>と「人間」としての<私>
- <自称「人間」>たちの「動物」的な政治
- <自称「人間」>たちの法・道徳・倫理
- 魔術的な没入を促す経済
- 動物的な、あまりに動物的な。
- ポスト・ヒューマンと自称「人間」:結論
予測不可能性を待つ
観てきたように、政治にせよ法にせよ、<自称「人間」>を語る「動物」たちの魔術的な没入を前提に機能している。リスク・コミュニケーションは、より顕在的なリスクの発見に没入することで、より潜在的な危険性の隠蔽を成し遂げる。問題発見は、発見可能な問題の発見に過ぎない。それ故、問題解決は、問題解決されるべき問題解決となる。倫理主義者に比して継続的な学習を志したとしても、我々の情報収集は、既知の領域のみならず無知の領域も拡大させる。
我々の意識のみならず、諸々の機能システムもまた、<純然たる現実>を認識することが不可能なのだ。
したがって、全体社会の出来事は、予測不可能である。逆説的にも、予測不可能であるということだけが、予測され続ける訳だ。こうしたパラドクスを展開するのが、貨幣である。貨幣は、経済システム(1) の作動においてシンボルによる一般化を果たしたコミュニケーション・メディアとして発現している。この貨幣は、予測不可能な未来への備えとして役立つ(2) 。そのため、こうした貨幣による未来の補助は、重要な位置付けとして予測される。無論、貨幣を所有すれば全ての問題を解決できる訳ではない。しかし、メディアとしての貨幣は、全体社会における予測不可能性を<リスク>として選択的に吸収することを可能とする(3) 。単純化して言えば、経済システムに包摂された「金銭をもつ者は、何が起こるかを知らないが、起こることを待つことができる」(4) 。言い換えれば、貨幣の所有者は、より顕在的なリスクに没入する決定者へと包摂されるのである。
これを前提にすれば、「デザイン」が施された商品には高価な取引が伴う。と言うのも、予測不可能性が帯びた商品には構造的な複雑性が生じるからだ。「デザイン」が施された商品を利用する場合、その商品の構造的な複雑性を理解する必要は無い。理解しなければ利用することができない商品に比して、「デザイン」された商品は魔術性を帯びているのだ。
とりわけトランス・ヒューマニズム的な知と技術で構成された商品については、導入された時点では価格が高まる可能性が高い。何故なら、これらの技術は新技術であるが故に、流動的選好や<リスク>の制御に力が注がれるからだ。複雑性を選択的に縮減することもまた複雑であるが故に、コストが高まるのである。
たとえば、こうした技術の開発が進めば、特許を持つ組織システムは莫大な価格を形式化させるはずである。とはいえ、特許が期限切れとなれば、価格は低下する。無論、全ての技術がこうした傾向を保つ訳ではない。医療の役割を帯びた技術に関しては、保険会社が支払いを中継するが故に、価格競争は起こり難い。しかし、ブレイン・マシン・インターフェイスや遺伝子技術のように「デザイン」の役割を帯びた技術に関しては、選択の産物である。それ故、需要の高い技術には多くの投資者がコミットする。トランス・ヒューマニズムを推奨するラメズ・ナムが示唆するように(5) 、短期的には価格が高まるにせよ、長期的には価格が低下する可能性が生じるのである。
政治や法、あるいは倫理や道徳ですら没入を前提にしているのだから、経済的コミュニケーションにおける貨幣の支払いもまた、没入を前提にしている。それ故、購買者は商品の複雑性が<宗教の機能的等価物としてのデザイン>により縮減されているということを信頼しなければならない。この場合、たとえば学術的な統計や広告的な宣伝を理解せずに利用することで、その商品の魔術性に自ら没入する必要がある。一方の消費者は、購買者の自己信頼を信頼する必要がある。さもなければ、取引は成立しない。商品のトレーサビリティを観察することでリスクを防止しようとしても、消費者が市場で構成されるより潜在的な危険性に太刀打ちすることは不可能である。したがって、商品を理解せずに利用できるようにするための「デザイン」は、死活的に重要である。トランス・ヒューマニズムが止め処なく発達していく以上、ポスト・ヒューマンは「デザイン」から「デザイン」へと渡り歩かなければならないのだ。
注釈
- ここで言及する「経済システム」とは、オートポイエティック・システムとしての経済システムである。無論、単に「経済」の語尾に「システム」と付け加えただけの合言葉や流行語の類ではない。形式としての経済システムは、その内部に<形式としての経済システム>と<メディアとしての市場>を発現させている。市場は、経済システムが自己言及と外部言及の差異を自己言及的に<構成>した場合に発現する。経済システムにコミットする我々人間は、外部環境としての市場に位置付けされる。
市場に位置する我々は、市場における取引を体験することで、財やサービスの移動や貨幣の流通を「観察」する。取引を可能とするのは、価格である。形式としての価格は、常に変動することで差異を<構成>する。この価格をメディア化することで、観察者は他者の購買や販売への動機付けをセカンドオーダーの観察レベルから「認識」することが可能になる。
取引は、価格の次のようなメディア化によって、可能となる。第一に、形式としての価格が顕在化されている時点において、価格それ自体の変動可能性を潜在化する。第二に、メディアとしての価格が<価格それ自体の変動可能性を潜在化させていること>を潜在化させていることを前提に、形式としての取引が顕在化する。つまり取引は、その時点における価格の固有性に依拠しているのだ。したがって、市場の観察者たちは、他の観察者たちがその時点のメディアとしての価格を後ろ盾に購買や販売を通じた取引を形式化するか否かを「観察」する。それと同時に、財やサービスの生産と生産に対する投資が釣り合うか否かを「観察」する。かくして市場は、セカンドオーダーの「観察」による人為的構成物として動態的に変動していく。市場に位置する観察者は、この変動可能性を常に「観察」することで、支払いを通じた経済的コミュニケーションを形式化させることを可能とする。したがって、経済的コミュニケーションの再構成を要素化する経済システムは、経済システムそれ自体と外部環境としての市場との差異を再構成し続けることを以って、オートポイエティックな作動を継続することになる。
これらの詳細は、ニクラス・ルーマン(著)、春日淳一(訳)『社会の経済』文眞堂 (1991)、pp84-127、pp234-278を参照。
- 機能的分化社会における全てのコミュニケーションは、意味の受容と拒絶の両端を可能とする。それ故、コミュニケーションには常に成功不可能性が伴う。それ故、「シンボルによる一般化」により差異を潜在化していることを潜在化することには、意味の拒絶が予期される場合でも尚受容され続ける可能性を高める効果を期待することができる。
メディアとしての貨幣は、支払いが第三者を宥めることから生じる。第三者は、財やサービスへの関心の有無を問わずに、ある観察者が希少な財やサービスを獲得するために支払いを遂行する様子を観察することになる。そして、第三者は自己の関与無しに希少な財やサービスが移動可能となることに対して異論を唱えることを取り止める傾向となる。何故なら、財やサービスの代価物として貨幣が流通するからである。この時、貨幣は顕在的に形式化される。それにより、形式としての貨幣は事後の使用可能性を顕在化させる。かくして支払いを通じたコミュニケーションの形式化が可能となる。一連のコミュニケーションを要素化することで、オートポイエティック・システムとしての経済システムは作動を遂行する。
第三者は、財やサービスの移動と貨幣の流通をセカンドオーダーの観察レベルから体験している。したがって、経済システム内部で利害の不一致が潜在的に発現しているにも拘わらず、メディアとしての貨幣は、支払いが観察者に与える影響を、支払いを遂行する観察者自身に対する影響と等価な形式として保証することになる。メディアとしての貨幣が潜在化しているからこそ、利害の不一致が顕在化する。しかしそれだけではなく、メディアとしての貨幣が潜在化することで、利害の不一致による収拾の付かない紛争を招く可能性を制御することができるのである。
これについては、ニクラス・ルーマン(著)、春日淳一(訳)『社会の経済』文眞堂 (1991)、pp234-278を参照。
- メディアとしての貨幣の潜在性を後ろ盾とすることで顕在化する形式には、次のような<リスク>が伴っている。すなわち、貨幣を支払えば選好が可能になると同時に、決定を誤る可能性が高まるのだ。選好可能性の幅が広いが故に、より正しい決定が相対的に難しくなるのである。
そもそも貨幣の受信において既に<リスク>は<構成>されている。何故なら、貨幣の受信は、貨幣の送信により欲求が充足されるという「認識」に支持されているからだ。この「認識」は、やはり偶発性に晒されることで容易に揺らいでしまう。我々は、それ自体では価値の無い媒介としての象徴で満足するしかない。そして、この媒介としてのシンボルは、人々を差異へと導くことになる。と言うのも、形式としての同一性は、その内部に<形式としての同一性>と<メディアとしての差異>を発現しているからだ。我々が如何に労働に勤しんだとしても、それに値するほどの貨幣の受信が保証されるかは不確実である。貨幣の送信たる支払いにより欲求が充足されるかも不確実である。送信せず貯蓄する道を選択したとしても、投資の必要性がなくなることは無い。この投資の段階でも<リスク>は伴う。現在における最良の投資と、未来における現在で行なわれる最良の投資は、別様なのだ。
このことに関する詳細については、ニクラス・ルーマン(著)、春日淳一(訳)『社会の経済』文眞堂 (1991)、pp234-278を参照。
- ノルベルト・ボルツ(著)、村上淳一(訳)『世界コミュニケーション』東京大学出版会(2002)、p132を参照。
- ラメズ・ナム (著)、西尾香苗 (訳) 『超人類へ! バイオとサイボーグ技術がひらく衝撃の近未来社会』河出書房新社 (2006)、pp74-79を参照。
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