ポスト・ヒューマンの魔術師

「自称人間」の時代からポスト・ヒューマンの時代へ。

<自称「人間」>たちの法・道徳・倫理

  1. ポスト・ヒューマンと自称「人間」:はじめに
  2. 単純性に没入する意識
  3. 意識を無意識的に操作する技術
  4. 学術と技術の魔術化
  5. 自己言及的パラドクス化の展開操作による「デザイン」
  6. 「動物」としての<自分>と「人間」としての<私>
  7. <自称「人間」>たちの「動物」的な政治
  8. <自称「人間」>たちの法・道徳・倫理
  9. 魔術的な没入を促す経済
  10. 動物的な、あまりに動物的な。
  11. ポスト・ヒューマンと自称「人間」:結論

法と道徳と倫理の差異

 既に述べたように、政治家は自称「人間」であり「動物」に過ぎない。それ故、「動物」を管理する環境管理型社会における政治を担うのは、「動物」だということになる。したがって、フクヤマが主張する技術的リスクに対する政治的対処は、パラドクス化する。技術は無論リスクを構成するのだが、「動物」たちの他愛も無いリスク・コミュニケーションもまたリスクを構成することになる。リスクが注目を集めれば、法の整備にも言及しなければならない。しかし、近代以降の法システムは、虚構を虚構で埋め合わせることで成立している。それ故、リスクに対する法的対処にもまた、リスクが伴う。

 詳しく観ていこう。法システムは、合法と不法を区別する。それ故、法システムにより合法として言及された権力は、公式性を帯びる(1) 。公式的権力をメディア化させることで形式化された意思決定の集約ならば、より多くの決定の被影響者を同一の方向性へと没入させることができる。

 これは信頼関係を考えれば明らかなことだ。観察者は、別の観察者が抱く自己信頼を信頼する。自己信頼を抱かない観察者を信頼することはできない。自己自身の信頼性を否定する観察者を信頼しようとすれば、我々は「嘘吐きのパラドクス」に直面する。ある観察者を信頼するには、その観察者が没入している自己信頼と同一の方向性へ没入する必要がある訳だ。

 したがって、合法を指示する法システムは、自己自身の区別を信頼している。合法的権力に依拠する政治システムは、法システムの自己信頼を信頼している。合法的権力における意思決定を信頼する被影響者は、法システムの自己信頼を信頼する政治システムを信頼している。信頼の元を辿れば、それは自己言及的に構成された虚構的な自己信頼に過ぎない。リスク・コミュニケーションの担い手たちは、法が没入する方向性を「デザイン」することで、皆が揃い踏みで没入するべくリスクを構成している訳だ。

 ここで短絡してはならないのは、法と道徳の差異である。たとえば、トランス・ヒューマニズム的な技術に自己決定権を付与するという法案があるとしよう。ここで言及する自己決定権とは、人権に言及する法である。無論、法であって道徳ではない。たとえば、美容整形が合法の範疇にあるとしても、いざ整形に取り組むことを道徳的に拒絶することは矛盾ではない。美容整形の合法化を主張する者が、美容整形を道徳的に拒絶したところで矛盾は無い。逆に言えば、道徳的に拒絶するべき観念が非合法化へと直結する訳ではない。

 道徳それ自体は善と悪を区別する(2) 。しかし、区別は区別それ自体を区別できない(3) 。何故なら、差異化された二つの対象に同時的に言及することは不可能だからだ。したがって道徳は、善い道徳と悪い道徳を区別することができない。それ故、道徳的に善とされる形式の内部に悪が構成されることもあれば、道徳的に悪とされる形式の内部に善が構成されることもある。つまり道徳は、必然的にパラドクスに陥るのだ。

 したがって、「道徳に対して道徳的判断を下すことができるのは倫理だけである。(中略)倫理の機能とは、道徳コードの統一、つまり善いと悪いの差異の統一を反省することなのである」(4) 。倫理の形式を導入することで、道徳のパラドクスは展開される。しかし、それはパラドクスの解消を言い表す訳ではない。何故なら、パラドクスの展開それ自体がパラドクスだからだ。したがって、道徳的パラドクスの隠蔽と倫理的パラドクスの発見は「地」と「図」の関係である。次のパラドクスは、倫理による区別に発現するだろう。すなわち、善い道徳の内部に悪い道徳が構成され、悪い道徳の内部に善い道徳が構成される可能性が生じる訳だ。この倫理のパラドクスを展開するためには、別の区別を導入することが必要になる。たとえば、損得の形式は、倫理のパラドクスに悩まされている観察者にとって、魅力的な発見となるだろう。もはや道徳のみでは法は語れない。既成の形式に依拠し続けるだけで学習しない姿勢を貫くのみでは、パラドクスに直面する。むしろ必要なのは、パラドクスの隠蔽と発見の循環を辿ることで、法的問題に対処していく度量である。


注釈

  1.  政治システムにおいてシンボルによる一般化を果たしたコミュニケーション・メディアとしての権力は、法システムにおける合法と不法の区別と密接に関連する。と言うのも、権力保持者が権力を行使するための法的根拠を獲得すれば、通常の権力行使に加えて過剰な権力行使も派生する可能性が生じるためだ。だが、全ての権力行使が制裁可能性による威嚇を後ろ盾にしている訳ではない。一つの権力が全てを支配し、全てに絶対的な影響力を与えている訳ではないからだ。形式としての命令は、メディアとしての服従を後ろ盾とする。そして形式としての服従は、メディアとしての非服従を後ろ盾としている。故に命令を顕在化させるためには、非服従が服従によって潜在化されていることを潜在化しなければならない。だからこそ権力には、協力や助力が必要なのである。この意味では、権力服従者は権力保持者への協力や助力を拒絶する可能性を顕在化させることで、権力性を獲得することになる。つまり、権力には対抗権力が付き纏うのだ。

     この二種類の権力は互いに逆ベクトルとして循環しているため、そのままでは相殺し合う。したがって、この二方向の権力の間には、循環的な回転を促すローラーのような役割が必要になる。具体的に言えば、ローラーが配備されることで、公式権力と非公式権力が差異化されなければならない。換言すれば、如何なる権力こそが公式的なのかを決定付けるモメントが、このローラーの役割を帯びるのだ。公式権力は、紛争等の諸問題が発生した場合に自己を主張する。たとえば、選挙民の権力、政府に対する議会の権力、官僚に対する政府の権力、そして被決定者としての民衆に対する官僚の権力は合法的で可視的に発現している。一方、非公式権力は常備的に自己を主張する。たとえば、上記の権力に対する全ての対抗権力がこちらに含まれる。非公式権力は、非公式であるが故に、およそ他者利益のための活動というものには着手しようとしない。機能的等価物として分出した各種の機能システムは、固有のコードに基づき再帰的かつ多文脈的に作動している。それ故、現代社会において権力を中心化させ絶対化させようとすれば、直ちにそれは権力の衰退を招く。逆に言えば、非公式権力の<構成>を容認するからこそ、公式権力は衰退を防止できるのである。つまり公式権力と非公式権力は、「地」と「図」の関係を織り成すのだ。

     如何なる権力こそが公式的なのかを決定付ける機能として、しばしば法システムが取り上げられる。何故なら、公式的か否かとは、すなわち合法的か否かを意味するからだ。この合法か不法かという区別は、他ならぬ法システムが有している二分コードである。政治家は、経済的な操作で思い通りに進まない政策に対しては、法システムをツールとして敢行しようとする。言わば、法システムが不法の可能性を潜在化させていることを政治システムが潜在化させることで、形式としての公式権力を顕在化させているのである。たとえば、どうにも思い通りに解決されない少年犯罪が多発すれば、スティグマという犯罪学的な副次的派生物の可能性にまで頭が回らない政治家が、短絡的に重罰化政策を選好する。

     それ故、政治システムを「観察」する場合、政治システムが他の機能システムに依存している状況が存在しているということに敏感にならなければならない。政治システムの機能的等価物である法システムは、権力とその対抗権力の差異化に役立っている。つまり合法としての公式的な権力を顕在化させることで、非合法としての非公式的な対抗権力を潜在化させる訳だ。法システムが下す差異化とは、合法と不法の区別である。そして、双方の機能システムの接触は、構造的カップリングにより実施されている。この構造的なカップリングを敢行する際には、双方のコミュニケーションが互いに円滑化されていなければならない。すなわち、政治的コミュニケーションが法的コミュニケーションを阻害することも、その逆も許されないのだ。双方のシステムが互いに自己の作動のオートポイエーシスを損なうことなく相互浸透を実践するには、双方の関わりにおいてもローラーの役割が必要となる。

     この場合のローラーの役割を担うのは、憲法である。この憲法というローラーが双方のシステムの間に存在しなければ、双方のシステムは無秩序に接触することになり、互いのオートポイエーシスを破綻させることになるだろう。憲法というローラーが存在することで、双方のシステムの接触点は一点に絞られる。つまり、双方のシステムは互いに憲法というローラーに接触することでしか、相手のシステムに接触することが不可能となるのだ。憲法が認める手続きのプロセスを通じてしか、接触は認められないという訳だ。

     常識的に言えば、憲法は主権の規律にコミットする。憲法を議論しない場合、法的主権と政治的主権は同一視されている。憲法を議論することで、この同一化は差異化へと移行するのである。憲法と政治システムの関連性を観るならば、憲法は、政治システムで実施されている政治的主権を巡る闘争を誘導する。この誘導の道標として使用されるのが、民主主義的手続きや憲法改正手続きである。この誘導に背く政治的実践には法的妥当性が認められない。何故なら、このローラーの回転に乗り誘導された政治的コミュニケーションのみが、合法か不法かを決定する法システムの観察対象になり得るからである。このローラーの回転に乗らない政治的コミュニケーションは、法システムにとって不可視となる。したがって、この場合は合法となることはあり得ないのだ。

     法システムは当の政治的コミュニケーションが合法か不法かを決定するが、その最終的な根拠を説明する義務は無い。これについても憲法の影響によるものである。憲法というローラーと接触している法システムは、同じくローラーに接触している政治システムに対して、一定の「期待」を設けることができるのである。既に述べたように、「期待」とは「一般化」の「圧縮」に他ならない。つまり、法システムは、政治システムが合法か不法かの最終的な根拠を問わずに法システムの決定に準拠してくれるものとして、「期待」するのである。したがって、法システムは政治システムが根拠を問わないことを後ろ盾にすることで、自己の安定性を確実化する。と言うのも、こうした接触は既に作動上の閉鎖性を成し遂げた後の出来事であるため、双方のシステムはその自律性を損ないオートポイエーシスを破綻させるということは起こり得ないのだ。かくして、法システムの立場からは、政治的主権が法に依拠していると言い張ることができるようになるのである。

     法システムのみが政治システムを利用している訳ではない。両者は機能的等価物である。よって政治システムもまた法システムを利用している。政治システムは法システムの決定に準拠した姿勢を取ることで、政治的主権が政治的主権によって政治的主権を基礎付けるという自己言及的パラドクスを隠蔽することを可能としているのである。憲法のローラーに乗り誘導されることで、権力は民主主義的手続きを介した上での権力となる。これにより、当該権力は法的な正当性を持ち合わせる。権力は公式化されることになり、全体社会システム上でも通用する権力となり得る。それと同時に、双方のシステムは互いにシステムと外部環境の差異を帯びている。それ故、双方のシステムは同時的に作動するのだが、「観察」がその作動に追い着くことはない。「観察」するシステムは、常に現在における過去を視る。したがって、こうした時間的次元における差異に基づく双方のシステムの接触は、「時間稼ぎ」として利用されることがある。実際、法システムは諸問題解決の時間的延期を機能化するシステムである。政治システムは、こうした法システムを利用することで、政治的に解決されるべきとされる諸問題の解決を延期することが可能になるのだ。諸問題を解決する能力が無い場合、あるいは時間を稼ぐ場合において、政治システムは法システムを効果的に利用するのである。年金問題が一向に解決しないのも、政治システムと法システムが互いに機能する所以である。

     民主的な立法手続きは、政治システムに法の変更に関するイニシアチブを付与する。政治システムが当該手続きを介して法のテクストに変化を加えれば、法システムはそれに基づき自己の自律的作動を組み換えることになる。かくして、政治システムは民主的立法手続きを巡る政治的コミュニケーションを活性化させる。

     政治システムによる民主的立法手続きに関与する法システムは、立法・行政・司法の組織システムを活性化させることを以って対処しなければならない。この場合、憲法は違憲という決定可能性を後ろ盾にすることで、法的根拠の一貫性を憲法解釈と整合するように仕向けようとする。憲法はテクストで表現されているにせよ、背景にある法的価値に準拠すべきであることには変わりはない。とはいえ、法的価値は相対的である。つまり、憲法解釈は個別具体化された諸問題によって多様となる。それ故、法的決定は安定しているものの、不確実的な価値の比較を実施する憲法裁判によって誘導されることになる。しかしながら一方では、こうした憲法解釈に付き纏う不確実性は、法システムそれ自身が法的決定を変更する際の口実にもなり得る。かくして、法システムは違憲判断を通じることで政治システムに対して立法へのイニシアチブを獲得するのである。

     権力の詳細については、ニクラス・ルーマン(著)、長岡克行 (訳)『権力』勁草書房 (1986)、pp5-90を参照。また、法システムについては次の二冊の全般を参照されたい。ニクラス・ルーマン (著)、馬場靖雄 (訳)、江口厚仁 (訳)、上村隆広 (訳)『社会の法(1)』法政大学出版局(2003)、ニクラス・ルーマン (著)、馬場靖雄 (訳)、江口厚仁 (訳)、上村隆広 (訳)『社会の法(2)』法政大学出版局(2003)を参照。
  2.  ニクラス・ルーマン(著)、庄司信(訳)『エコロジーのコミュニケーション』新泉社(2007)、p259を参照。
  3.  観察者は、自己の観察それ自体を同時的に観察することは不可能である。仮に自己の観察それ自体に言及するならば、<自己の観察それ自体>と<自己の観察それ以外>という差異を新たに構成する必要がある。この差異の再構成には、時間が必要である。形式は、同時的に二つの差異を構成することはできない。同時的に二つの差異を構成した場合、それは<同時的に構成された二つの差異それ自体>と<当該差異それ以外>という差異を<一つだけ>構成しているに過ぎない。総じて、観察者が自己の観察に伴う盲点を同時的に観察することは不可能なのである。

     このことについては、長岡克行 (著) 『ルーマン/社会の理論の革命』勁草書房 (2006)、pp184-198、ニクラス・ルーマン(著)、村上淳一(訳)『ポストヒューマンの人間論―[後期ルーマン論集]』東京大学出版局(2007)、pp117-135、ニクラス・ルーマン(著)馬場靖雄(訳)『社会の芸術』法政大学出版局(2004)、pp85-107を参照。
  4.  ニクラス・ルーマン(著)、庄司信(訳)『エコロジーのコミュニケーション』新泉社(2007)、p259を参照。

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