「人間」としての<私>は、葛藤が起きない限り、自覚の有無を問わず「動物」としての<自分>に従う。数多の情報や選択肢を吟味するのは、「動物」としての<自分>だ。「人間」としての<私>は、「動物」的にフィルタリングされたごく少数の情報や選択肢のみを事後的に吟味すれば良い。環境管理型社会では、複雑高度な事物について考える必要は無い。意識という「ユーザーイリュージョン」は、技術から無意識を介して添付される機能的な単純性のみに反応すれば良い。葛藤が生じれば、技術にクレームを発すれば良い。環境管理型社会の技術は、単純であり、便宜的であり、無知でも構わず、理解する必要が無い、虚構を前提に成り立つ「知のデザイン」を体現しているのだ。
したがって環境管理型社会とは、構造的な複雑性を毛嫌いし機能的な単純性を好む単純志向の者たちにとって、眼から鱗が落ちる政策ポリシーである。我々は、「動物」としての<自分>の「剥き出しの生」を重視することで、容易く「欲求」の方向性へと没入することが可能になるのだ。とはいえ、ポジティヴィティとネガティヴィティは「地」と「図」の関係だ。たとえばフランシス・フクヤマならば、それは『人間の終わり』(1)であると嘆くところだろう。フクヤマの見解では、抗鬱剤プロザックは「欲望」の達成を脳科学的に代価すると言う。「欲望」の達成には、他者が必要なのであった。したがって、プロザックという学術的な構成物と他者という存在は、機能的に代価可能な等価物ということになる。フクヤマの見解によれば、この代価可能性が人間性の本質を脅かすという訳だ。
しかし逆説的ではあるが、フクヤマのこの考察は、歴代のヒューマニストたちが自ら墓穴を掘り、深き墓穴で嘆き苦しんでいる光景をわかり易く描写してくれた。フクヤマの考察が言い表しているのは、「欲望」達成における他者性の代価可能性が人間性を棄却するということである。つまり、他者と手と手を取り合い「欲望」を達成していくことで、人間は人間的になるという訳だ。しかし、仮にこうした弁証法で人間的な人間が顕在化するとするならば、それは非人間的な人間の潜在化を後ろ盾としている。両者は「地」と「図」の関係だ。したがって、仮に他者と協同的に「欲望」を達成できる人間的な人間が存在するとすれば、その背後には他者と協働できない非人間的な人間が存在するということになる。フクヤマの綺麗事を真に受けるとなると、ヒューマニストが人間性の本質を保持するためには、<手を繋いで貰えなかった非人間的な人間>を無視する必要があるということになる。
これは包摂と排除の逆説だ。<手を繋いだ人間的な人間>を受け入れるには、<手を繋いで貰えなかった非人間的な人間>を排除する必要がある。とはいえ、非人間的な人間も、元を辿れば人間だ。同じ人間を排除することが「人間的な人間の本質」だというのならば、歴代の人間中心主義者たちは、悪い空気を吸うと死んでしまう「KY信者」(2)と、同レベルだろう。フクヤマは「これが倫理的なだけでなく政治的な問題であるということを忘れてはならない」(3)と釘を刺す訳だが、無論その政治的と言うに相応しい見解を訊いて見たいところだ。
フクヤマのような技術的リスクに抗う論客が提起するオルタナティヴは、情報開示に基づく参加型民主主義である。しかし無論、政治家もまた盲点からは逃れられない。無数に遍在する観察対象の中から、没入対象を選択するしかないのだ。それ故に政治家は、決定者と決定の被影響者という差異を極小化することで、より多くの世論や国民を政治と同じ方向性へ没入させることを可能にしたのである。意思決定の集約を機能とする政治システムの観点から観れば、民主主義は好都合だ。
しかし、政治は学術や技術を理解している訳ではない。カール・ポパーの反証可能性命題に象徴されるように、学術はテーマの同一性を前提とした上で寄与の差異を構成し続けるシステムである。しかし政治は、意思決定を集約しなければならない。それ故、テーマではなく寄与の同一性を重視する。この学術と政治の機能的な差異は、政治においてシンボルによる一般化を果たしたコミュニケーション・メディアとしての権力(4) を背景とすれば、頷けることである。と言うのも、仮に政治家の意思決定が容易く反証されてしまう程度の寄与であるとすれば、その政治家は権力を保持するという観点で痛手を受けるからだ。
したがって、政治が重視するのは脱魔術化ではない。むしろ政治が重視するのは、如何にして決定の被影響者を決定者と同一の方向性へと没入させるのかという魔術である。没入させれば、反証を被ることはないからだ。それ故、世論の人気を獲得した弁護士が政治家になるというのは、政治的に優れた選択である。世論は、お好みの政治家と同じ方向性に没入する。マスメディアを介したアピールは、政治の「デザイン」なのだ。今日、高視聴率を叩き出した番組の出演者たちは、政界参入というお釣りを被る。
これを前提に言えば、政治は学術や技術を無理解のまま利用することになる。「デザイン」が施されていない複雑な知や技術を背景とした場合、意思決定の集約が偶発性に晒されてしまうからだ。概して複雑なテーマでは、寄与が別様にもあり得てしまう。たとえば、政治の視点から観た外部環境と経済の視点から観た外部環境では、相対的に異なるはずだ。この場合、政治は外部環境を「自然環境」として絶対化することで、テーマを単純化することができる。そこで役立つのが、学術が用意した「自然環境破壊」に関する統計だ。ボルツが述べたように、「誰もが魔法にかかったように視線を数字に向ける。有り難いことに、統計は複雑性を覆い隠し、さまざまな連関を括弧に入れてくれるのだから。学問と政治の間に少しでも重なる部分があるとすれば、それはこれらの数字なのだ」(5) 。皆が揃い踏みで外部環境を自然環境と読み替えているのは、政治の魔術によるものである。
環境管理型社会が支配的となった現代において、政治を実践するのは「動物」を管理する「人間」である。しかし、このように述べただけでは、「動物」と「人間」を区別するのは誰なのかという問題に直面する。たとえば人間中心主義を標榜する自称「人間」が、この区別を付与したならば、直ぐに非人間的な人間の排除に結び付くだろう。しかし、確かなことが一つだけある。「動物」ではない「人間」は存在しない。自称「人間」もまた「動物」なのだ。これは、システム理論的に言えば「形式の形式への再参入」という逆説的な思考方法で定義することができる。すなわち、「動物」と「人間」という区別が、「動物」の内部で再構成されているということだ。
したがって、「動物」を政治的に管理するのは、「動物」である。同様に、環境管理型社会を管理するのも、「動物」だ。管理する「動物」は、学術が用意した魔術的な統計や経済システムが用意した広告的な宣伝を無理解のまま利用することで、「欲望」や自由意思を魔術的に方向付ける。自称「人間」として振舞い続けるのだ。自称「人間」という出来レースに参加しなければ、「動物」を管理する資格を得られないためである。しかし実際は、管理する「人間」も「欲求」を重視する「動物」に過ぎない。それ故、管理する「動物」としての自称「人間」は、自覚の有無を問わず、他の自称「人間」によって管理されている。「人間」は、管理する「動物」であると同時に管理される「動物」である。パラドキシカルな立場なのだ。だからこそ自称「人間」たちは、非人間的な「動物」を指し示そうとすれば、直ちに自己言及的パラドクスに陥るのである。
誤解しないで貰いたい。技術があるからこそ人間性の本質が堕落するのではない。人間本位なヒューマニズムは、既に自滅しているのだ。環境管理型社会の技術は、あくまでその<止めを刺した>だけである。非人間的な人間は、喪失することなく、常に排除され続けた。「なぜなら、「人間の」哲学であることを強く謳うものは、その本質規定に従わない具体的個人すべてに「人でなし」というレッテルを貼るしかないからだ」(6)。人間中心主義は、それ自体が非人間的イデオロギーと化すことで、自己言及的パラドクスに晒されたのである。
環境管理型社会の魔術的な技術は、ヒューマニストたちが信仰してきた人間性の妄想を、いとも簡単に砕いた。技術と他者性は機能的等価物である。他者への信頼は、システムへの信頼へと切り替えられた。「欲望の弁証法」は、既にその「実行可能性」を喪失している。人間本位な「欲望」の方向性は、もはや「動物」的な「欲求」の方向付けに取って代わった。複雑な事柄を毛嫌い、単純な事柄を求める我々は、この状況に有り難く思うことだろう。既に述べたように、環境管理型社会の技術は、単純であり、便宜的であり、無知でも構わず、理解する必要が無い、虚構を前提に成り立つ「知のデザイン」を体現しているのだ。