環境管理型社会は、没入感を魔術的に方向付ける「デザイン」を利用した社会システムである。既に述べたように、魔術的な技術を利用する環境管理型社会は、他者信頼の負担を免除してくれる。技術を駆使した社会的システムを信頼すれば事足りるのだ。環境管理型社会では、信頼できるか否かという人格の問題は、潜在化しているのである。とはいえ、顕在的な形式と潜在的なメディアは、「地」と「図」の関係なのであった。したがって、人格の問題が潜在化しているということは、機能的に代価可能な別様の形式が顕在化しているということになる。
ルーマンが明らかにしたように、人格と身体は「地」と「図」の関係だ(1)。人格が顕在的に形式化されれば、身体は潜在的にメディア化される。人格とは、コミュニケーションの担い手か否かを区別する形式である。コミュニケーションの担い手として観察されない者は、身体として位置付けされる。たとえば、マスメディアや電子メディアの発達を背景にすれば明らかなように、コミュニケーションは脱空間化することが可能だ。コミュニケーションの担い手が、その空間に位置する必然性は無い。身体が可視的な同一空間に位置することなく潜在化したとしても、コミュニケーションの担い手としてマークされることが可能なのである。
しかし環境管理型社会では、身体はむしろ顕在化している。ボルツと共に、「身体は最近発見された<意味の新大陸>だと言うことができよう」(2)。人格と身体は「地」と「図」の関係だ。一方が顕在化すれば、他方は潜在化する。確かに、マスメディアや電子メディアが脱空間的なコミュニケーションを顕在化したために、身体は一旦潜在化した。だが身体は、潜在化しているからこそ顕在化するための契機を獲得できるのである。何故なら顕在化している人格は、自己言及的パラドクス化に晒されてしまうからだ。コミュニケーションの担い手を区別する人格は、<非人格者とのコミュニケーションを拒絶すること>それ自体がコミュニケーション・メディアとして発現するというパラドクスに陥る。不作為の原理に象徴されるように、コミュニケートしないこともまたコミュニケーションなのだ。したがって、形式としての人格は、コミュニケーションの担い手を適切に選択することが困難となる。「実行可能性」が喪失する訳だ。他者信頼の負担が増加するのは、そのためだ。
それ故、一度潜在化した身体は、顕在化する契機を得る。身体が顕在化すれば、対為す概念である人格は潜在化することになる。<意味の新大陸>として形式化した身体は、社会における観察対象となるのだ。ジョルジョ・アガンベンの言葉を借用するなら、「剥き出しの生」(3)として顕在化した身体が、観察されることになるのである。人格が潜在化すると同時に、他者信頼への要請も無力化されるようになる。それ故、人格を観察する規律訓練型社会が潜在化すると同時に、身体を観察する環境管理型社会が顕在化する。環境管理型社会が制御すべきは、もはや人格ではなく、身体なのだ。
一方、身体の顕在化は、直ぐに形式としての身体というアイロニーを構成する。<意味の新大陸>として形式化された身体は、それ自体で区別を付与することが可能になるのだ。したがって身体を観察する我々は、身体が構成した差異をセカンドオーダー・サイバネティクスとして認識することになる。それ故、純然たる身体の認識はあり得ない。あるのは「純然である」という観察のフィードバックを介した、再帰的な認識だ。身体を認識する我々は、あくまで身体が既に複雑性を選択的に縮減していることを前提にした上で、複雑性を選択的に縮減するしかないのである。
これを前提に言えば、意識する<私>は、無意識的に作動する身体の感覚器官に位置する<自分>が選択的に縮減した複雑性を、事後的に観察する。閾下レベルで選択された選択肢の中から、意識は事後的に<私>としての選択を実行するのである。そして<自分>は、環境管理型の技術が選択的に縮減した選択肢を、事後的に観察する。バイオメトリクスやリモートセンシングに代表される外面的な技術的データベースにおいて選択された選択肢の中から、無意識的な<自分>は事後的に<自分>としての選択を実行するのだ。<私>が<自分>が等閑視した盲点を事後的に等閑視するように、<自分>は技術的なフィルタリングで等閑視された盲点を等閑視することになる。<自分>が<私>の選択肢を制御するように、技術は<自分>の選択肢を制御する。<私>の没入対象を方向付けるのは、<自分>だ。一方で<自分>の没入対象を方向付けるのは、技術である。したがって<私>は、技術によって方向付けられた<自分>が指し示す方向性に没入することになる。<自分>は無論無意識的に作動する身体の感覚器官であるために、<私>は技術が盲点として等閑視した非選択対象を知ることができない。しかし、だからこそ意識する<私>は、単一の観点に没入することが容易く可能になるのである。
東に倣えば、この<自分>と<私>の差異を「動物」と「人間」の差異に置き換えることができる。「動物」とは、ヘーゲリアンのアレクサンドル・コジェーヴから東へと語り継がれた概念である(4)。「動物」は、「欲求」を持つ。たとえば空腹感や睡眠欲など、欠乏から満足への回路で「欲求」は成り立つ。一方、「動物」と対為す概念である「人間」は、「欲求」のみならず「欲望」も併せ持つ。「欲求」における欠乏から満足への回路が閉鎖的に自己完結できることに対して、「欲望」は他者を必要とする。
東が現代社会の「動物化」を指摘する背景には、ジョージ・リッツァが提唱した社会の「マクドナルド化」(5)が挙げられる。たとえばファーストフード店に設置されている硬質な椅子の効果については、あまりにも有名だ。座り心地の悪い椅子が客の回転率を上げるための「デザイン」として機能しているのである。座り心地の悪い椅子に座るユーザーは、その椅子が硬いが故に早く立ち去ろうと意識している訳ではない。あくまで立ち上がろうとするのは、<私>ではなく<自分>なのだ。空腹という「欲求」を果たした<私>は、もはやその店に留まる必要は無い。それ故、<自分>が椅子から立ち上がったとしても、<私>は文句を言わずに従ってしまうのである。
我々が意識する自由意思は、他の動物には無い特徴と言える。一方、無意識的な感覚器官は他の動物にも観られる。それ故、この「人間」と「動物」の区別は、<私>と<自分>の区別に対応するのだ。したがって、「動物」的な「欲求」は、「人間」的な欲望を上回る可能性が高い。ファーストフード店でテーブル越しに長話を弾ませる<私>たちの「欲望」は、椅子から立ち上がろうとする<自分>たちの「欲求」を超えることができないのだ。
環境管理型社会の制御対象となるのは、まさにこの「動物」としての<自分>である。現代社会は、この「動物」の「欲求」にスポットライトを当てることで、「剥き出しの生」を顕在化させている。<私>ではなく<自分>に語り掛けることで、<私>の自由意思の如何を問わず、社会秩序の成立に好都合な操作を施すことが可能になったのだ。
身体に言及する生物学者は、学問的コミュニケーションを形式化する学問システムに包摂されている。だが、形式としてのコミュニケーションの<形式としてのコミュニケーション>への再参入を背景とする限り、一旦コミュニケーションの担い手としてマークされた者は、事後において少なからず、コミュニケーションの担い手か否かという区別における言及対象となる。たとえば、コミュニケーション・パートナーの女性が八方美人であると知れば、我々は少なからず事後のコミュニケーションにおいて相手の人格を問うだろう。つまり、形式としての人格は、<形式としての人格>への再参入を引き起こすのだ。このことについては、ニクラス・ルーマン(著)、村上淳一(訳)『ポストヒューマンの人間論―[後期ルーマン論集]』東京大学出版局(2007)、pp117-135を参照。