ポスト・ヒューマンの魔術師

「自称人間」の時代からポスト・ヒューマンの時代へ。

自己言及的パラドクス化の展開操作による「デザイン」

  1. ポスト・ヒューマンと自称「人間」:はじめに
  2. 単純性に没入する意識
  3. 意識を無意識的に操作する技術
  4. 学術と技術の魔術化
  5. 自己言及的パラドクス化の展開操作による「デザイン」
  6. 「動物」としての<自分>と「人間」としての<私>
  7. <自称「人間」>たちの「動物」的な政治
  8. <自称「人間」>たちの法・道徳・倫理
  9. 魔術的な没入を促す経済
  10. 動物的な、あまりに動物的な。
  11. ポスト・ヒューマンと自称「人間」:結論

如何にして「デザイン」は可能か

 ボルツの主張は、<宗教の機能的等価物としてのデザイン>により、学知や技術に伴う構造的な複雑性を機能的に単純化していくということであった。言わば「デザイン」とは、没入の方向性を魔術的に指し示すことを言い表す。魔術的なスタンスの可能性は既に記述した通りである。以下からは、こうした「デザイン」は如何にして可能なのかを問う。

 ボルツによれば、「デザイン」は区別から始まる(1) 。差異理論的に言えば、この出発点は的確だ。と言うのも、我々の認識は没入を前提にしているからである。ある対象に没入しているということは、別の対象を盲点として等閑視しているということになる。没入の対象と盲点の対象は「地」と「図」の関係だ。したがって、双方に差異が伴わなければ、我々はある対象を認識することができない。差異を構成させるためには、区別が必要になる。故に、「デザイン」は区別から出発するべきだ。

 区別が付与されていない状況とは、得てして高度に複雑だ。レイ・カーツワイルが予言した「特異点」(2) に象徴されるように、トランス・ヒューマニズム的な学術と技術は加速的に発展していく。このカーツワイルの予言は、未来を見抜いているというよりも、むしろ技術者たちの終わりなき進歩への志を意味づけていると言えよう。未来の現実が現在の予言を構成しているのではなく、現在の予言が未来の現実を構成しているのだ。したがって、トランス・ヒューマニズム的な学術と技術が普及されることで、我々はますます理解せずに利用可能な学術と技術を利用することになる。つまりポスト・ヒューマンの文化には、「デザイン」が必要になるのだ。

「実行可能性」という便宜の尺度

 とはいえ、魔術的な「デザイン」が必要だとしても、常に区別を更新すれば良いという訳ではない。既成の区別が便宜的であれば、その区別を作為的に利用し続けるという選択も可能である。ここで言う「便宜」の尺度は、「実行可能性」に他ならない。「実行可能性」は、徹底的に構成主義的な社会システム理論の用語である。「それによれば、われわれは学問の「真の道」を断念して、「合っている」もので満足しなければならない。合うものはすべていける。理論は真実なのではなく、隠された認識の部屋を開けるキイであり、いつでももっとよく合うキイに取り替えられるものである。だから、理論は現実に合えばよいのであり、「狷介」である必要はない(3)。我々には現実的現実と虚構的現実を区別することができない以上、真実と現実の間には差異が生じている。真実を追い求めれば、魔術に駆られるだろう。したがって「デザイン」は、終わりなき脱魔術化の追求という魔術的な束縛を打開するために必要とされる。それ故、「デザイン」が真理を指し示すことに必然性は無い。デザイナーが採るべきスタンスは、善く言えば臨機応変であり、悪く言えば便宜主義なのだ。

自己言及的パラドクス化の展開操作

 「実行可能性」の具体的な閾値は、現在利用されている区別における自己言及的パラドクスの潜在性に関わる。通常、区別は人為的構成物である。常に別様にもあり得る訳だ。それ故、如何なる区別の付与も可能ではあるが必然ではない。ある区別が、他の区別に比して絶対性を獲得することは、あり得ない。しかし、如何なる区別も、自己言及的パラドクスに陥る。自己言及的パラドクスとは、ある差異を構成する区別が同時的に当該区別それ自体を区別できないが故に生じる自己矛盾である。とはいえ、区別は同時的に区別それ自体を区別できないとすれば、その区別を付与している観察者は、その区別が自己言及的パラドクスに陥ったか否かを区別することができない。認識対象に没入している観察者自身の観点からすれば、その区別が自己言及的パラドクスに陥ったか否かを知ることはできないのである。当該区別の自己言及的パラドクスを観察することができるのは、別の時点で区別を付与することができる別の観察者に限られる訳だ。

 したがって、ファーストオーダーの観察者が付与した区別の自己言及的パラドクスを発見できるのは、セカンドオーダーの観察者である。とはいえ、セカンドオーダーの観察者がファーストオーダーの観察者と同一の方向性へと没入した場合、セカンドオーダーの観察者はその自己言及的パラドクスを見抜くことができない。仮にセカンドオーダーの観察者がファーストオーダーの観察における自己言及的パラドクスを盲点として等閑視した場合、「実行可能性」が持続する可能性が高まる。と言うのも、自己言及的パラドクスが潜在化している区別は、「現実に合っている」からだ。逆にセカンドオーダーの観察者がファーストオーダーの観察における自己言及的パラドクスを発見した場合、「実行可能性」が棄却される可能性が高まる。自己言及的パラドクスが顕在化している区別は、もはや現実に合わない。それどころか、ある区別の自己言及的パラドクスを発見したということは、別の区別の自己言及的パラドクスを盲点として等閑視している可能性もある。発見と盲点は「地」と「図」の関係だからだ。それ故、ある区別の「実行可能性」は低まり、別の区別の「実行可能性」が高まる可能性が生じる。自己言及的パラドクスは、「隠された認識の部屋を開けるキイであり、いつでももっとよく合うキイに取り替えられるものである」のだ。

情報の機能

 とはいえ、ここで言及しているのは二つの区別ではあるが、視点を変えれば、<ある区別と別の区別>を差異化する一つの区別に言及しているに過ぎないと考えることもできる。無論、<ある区別と別の区別>を差異化する一つの区別に言及し続けることにもまた、自己言及的パラドクスが伴う。したがって、観察者はいずれ<ある区別と別の区別>を差異化する一つの区別からも眼を逸らさなければならない。

 そこで機能するのが、情報である。周知のように、グレゴリー・ベイトソンは情報を「差異を生み出す差異」として定義した(4)。情報は、それ自体が差異である。情報の対為す概念は、データに他ならない(5)。情報が差異を生み出す一方で、データは同一性を保持する。たとえば、出版物に記録されているデータは、出版物が改正されない限り、同一のままだ。だが、出版物から読み取れる情報は、観察者次第で異なる。同一のデータを観察しているとしても、同一の情報を認識するとは限らない。既に述べたように、我々の意識は単純性に没入するために、情報の複雑性を選択的に縮減することになる。しかし、まさにその選択性が観察者次第で異なるのである。したがって、システム理論の視座から言えるのは、情報は観察や認識の差異を生み出す差異であるということになる。

 これを前提に言えば、我々は自己言及的パラドクスを次のように展開操作することが可能になる。まずAに没入する観察者は、非Aを盲点として等閑視している。観察者は、Aを自己言及的パラドクス化することで、非Aへと観点を移動させることができる。しかし、<Aと非Aの区別>に関しても自己言及的パラドクスが伴う。とはいえ、<Aと非Aの区別>の内部で観点を移動させている観察者は、この区別それ自体に没入している。そのため、この自己言及的パラドクスに気付くことができない。したがって、観察者がこの区別の自己言及的パラドクスを発見するためには、この区別が別様にもあり得るという可能性を認知しなければならない。そのために必要となるのが、情報である。観察者は、情報に依拠することで区別が別様にもあり得るということを認知する。それにより、<Aと非Aの区別>の自己言及的パラドクスを顕在化させ、<Bと非Bの区別>の自己言及的パラドクスを潜在化させることが可能になる。かくして観察者は、<Bと非Bの区別>に没入することが可能になる。つまり、この区別の内部で観点を移動させることが可能になるのだ。

「デザイン」の進化

 学術と技術が発展していけば、外部環境に位置する我々はますます環境複雑性に晒されることになる。トランス・ヒューマニストたちは我々の身体との構造的なカップリングを促すために、我々自身は身体を巡る選択を迫られる。それ故、ウルリッヒ・ベック(6)やフランシス・フクヤマのように、リスク・コミュニケーションを強調する論客が表われるのは、尤もなことだ。しかし、リスク・コミュニケーションを展開している観察者が言及しているのは、あくまで顕在的なリスクである。潜在的な危険性ではない。「潜在的な危険がある」と指摘することも、無論より潜在的な危険性を見落とすことで可能となる没入に他ならない。リスクを語る論客たちは、より潜在的な危険性を盲点として等閑視するからこそ、より顕在的なリスクの対策に没入することができるのだ。それ故「問題発見」とは、発見可能な問題の発見に終始することである。そして「問題解決」とは、常に問題解決されるべき問題解決に過ぎない。かくしてリスク・コミュニケーションは、循環的に連続していく訳だ。「こうして問題が問題を派生させるという事態が「原理的に」解決されるものではなく、進化によって解消されるしかないことは、明らかである(7)

 「デザイン」が機能的な単純化を促すのだとしたら、「デザイン」された「デザイン」はより効果的に機能する。効果的な「デザイン」として観察される「デザイン」は、確かに生き残る。生き残った「デザイン」は、繰り返し利用されるだろう。だがそれは、ある特定の「デザイン」が没入の対象として顕在化することで、「デザイン」に伴う潜在的な危険性が等閑視されていることを意味する。さもなければ、リスキーな「デザイン」を選択する理由が無くなる。没入を方向付けるには、まずその方向性に没入しなければならない。

 しかし、無理解のまま利用することで前進していくことこそが「デザイン」の醍醐味なのであった。それ故、「デザイン」された「デザイン」を利用する観察者は、通常「デザイン」に伴う潜在的な危険性の全てを理解する必要は無い。理解する必要があると主張するならば、直ぐにまた終わりなき脱魔術化の追求という魔術的な束縛に駆られることになる。「こうして、デザイン理論は、サイバネティクスになる」(8) という訳だ。

注釈

  1.  ノルベルト・ボルツ(著)、村上淳一(訳)『世界コミュニケーション』東京大学出版会(2002)、pp215-216を参照。
  2.  レイ・カーツワイル(著)、井上健(訳)『ポスト・ヒューマン誕生 コンピューターが人類の知性を超えるとき』NHK出版(2007)を参照。
  3.  ノルベルト・ボルツ(著)、村上淳一(訳)『意味に餓える社会』東京大学出版会(1998)、p278を参照。
  4. グレゴリー・ベイトソン (著)、佐藤良明 (訳)『精神の生態学』新思索社; 改訂第2版版 (2000)を参照。
  5. ノルベルト・ボルツ(著)、村上淳一(訳)『世界コミュニケーション』東京大学出版会(2002)、pp121-136を参照。
  6.  ウルリッヒ・ベック (著)、東廉 (訳)、伊藤美登里 (訳)『危険社会―新しい近代への道』法政大学出版局 (1998)を参照。
  7.  ノルベルト・ボルツ(著)、村上淳一(訳)『世界コミュニケーション』東京大学出版会(2002)、p223を参照。
  8.  ノルベルト・ボルツ(著)、村上淳一(訳)『世界コミュニケーション』東京大学出版会(2002)、p223を参照。

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