- ポスト・ヒューマンと自称「人間」:はじめに
- 単純性に没入する意識
- 意識を無意識的に操作する技術
- 学術と技術の魔術化
- 自己言及的パラドクス化の展開操作による「デザイン」
- 「動物」としての<自分>と「人間」としての<私>
- <自称「人間」>たちの「動物」的な政治
- <自称「人間」>たちの法・道徳・倫理
- 魔術的な没入を促す経済
- 動物的な、あまりに動物的な。
- ポスト・ヒューマンと自称「人間」:結論
終わりなき脱魔術化の追求という魔術的な束縛
環境管理型社会の顕在化は、学術と技術の発達過程と密接に関わる。逆説的ではあるが、学術と技術は、無知でも無理解でも利用可能な真理を構成することで、他者を信頼することの負担を免除してくれるのだ。
学術は、合理性や学知を追求してきた。言わば脱魔術化を追及したのである。たとえば周知のように、レヴィ=ストロース以降の構造主義者たちは、供犠的な手続きに抵抗した。ポスト構造主義者たちについても、この供犠に対して懐疑的であった。無論彼らの主張は正しい。供犠を目論むシステムは、人間を犠牲にすることにより自己を神聖化している。複雑な法的問題を犯罪者個人の問題へ単純化する傾向や、政治的汚職を政治家のモラルの問題へと縮減する傾向は、広義の意味で供犠である。近代化以降の政治システムや経済システムは、政教分離やテクノクラート化を果たすことで脱魔術化したのではない。むしろ近代的な合理性や専門的な学知に依拠することで、供犠的な手続きが潜在的に遂行されるようになったのである。したがって、近代社会の潜在的な供犠的手続きに対して、脱魔術化を追及する思想家が現れたのは、不思議なことではない。
しかし、学術に勤しむ知識人や専門家たちも、盲点からは逃れられない。繰り返すように、没入対象と盲点は、「地」と「図」の関係だ。したがって、知識人や専門家たちも例外なく認識論的な限界に直面するのである。ジル・ドゥルーズが既に見抜いていたように、反復的に顕在化する出来事が必ずしも同一の意味を帯びている訳ではない(1) 。そこには差異が潜在している。これは学術においても然りだ。「シンボル」(2) による「一般化」(3) を果たした「コミュニケーション・メディア」(4) としての真理は、非科学的な差異を潜在化させることにより、研究や議論で反復的に利用される論理や方法の同一性を顕在化させている(5)。それ故、真理をメディア化させることで形式化される学術的コミュニケーションは、<真理が非科学的な差異を潜在化していること>を潜在化させることになる。しかし、如何に同一性を顕在化させたとしても、その同一性は<差異>と<同一性>の差異から意味論的に構成された形式に過ぎない。それ故、形式が形式の内部に再参入されるというパラドクスが伴う(6) 。つまり、学術が非科学的な差異を顕在化させてしまう可能性が生じるのだ。
上記のシステム理論的な観察は、学術の魔術化を指し示す。学術が発見した合理性や学知には、常に不可避的に盲点が伴っていた。聖と俗は、「地」と「図」の関係だ。聖が無ければ、俗も無い。俗性の追求が続くのは、常に聖なる魔術が潜在化していたためである。それ故、学術は逆説的な帰結に至ることになった。すなわち、終わりなき脱魔術化の追及が、魔術的に我々を呪縛しているのである。供犠への抗いのみならず、真理を追究する学術は不可避的に魔術化する。「非宗教的な人間は宗教的人間から発生している」(7) と指摘する宗教学者ミルチャ・エリアーデの考察は、この逆説を端的に言い表した。アブラアム・モールの社会心理学的な考察も指し示すように、「合理性がうまく侵入しないところ、(中略)人間が自分の環境の諸要素と諸力を全的に支配できない到るところに「神」は存在する」(8) という訳だ。
科学技術は、文字通り学術的に構成された技術である。それ故、学術の脱魔術化に伴った魔術化は、直ぐに技術へと伝染した。技術は、ユーザーが理解せずに利用できる知である。プログラミング言語を理解していないユーザーでも、容易くヴァーチャル・リアリティに没入できるのは、そのためだ。「もはや根拠づける必要なしに円滑に遂行されるということが、技術的仕組みの魅力に他ならない。討議するまでもないのだ。技術とは、さまざまの原因と結果が織りなす複雑性をうまく縮減するものである」(9) 。
こうした学術と技術の魔術化は、学術と技術が生み出した高度情報社会で顕在化している。今や学術と技術と魔術は、機能的に代価可能な等価物となった。宮台真司が鋭く指摘するように、「科学が世界を自然法則によって説明できるようになればなるほど、じつはその説明自体によっては説明されない『端的な前提』が可視的になってきてしまう」(10) のだ。こうした魔術化に備えるためには、我々も魔術を理解せずとも利用できる必要がある。ボルツの言葉で「言い換えれば、われわれに必要なのは知を増やすことではなく、知を造形することである。これを「知のデザイン」と名づけておこう。「教養」といったコンセプトや「本」のようなメディアは、ここでは何の役にも立たないのだ」(11) 。
このボルツが提唱する「デザイン」をより深く考察するためには、<宗教の機能的等価物としてのデザイン>というテーゼに言及するべきであろう。「宗教の最も重要な機能は、不確実性の吸収にある。現代社会は複雑で先を読めないものだから、本質的なものを欠く存在にただでさえつきまとう不確実性を、途方もなく増大させた。(中略)デザイナーは物の使用に向けて人を誘惑しようというわけだから、技術に対して、そして内部を見通せない小道具に対して人が抱く不安を、払拭しなければならない。」(12) つまり、学術と技術と魔術が機能的に代価可能な等価物であるが故に、宗教的な魔術としてのデザインが学術的かつ技術的な効力を発揮するのである。
既に述べたように、「デザイン」は不確実性を吸収する。言い換えれば、複雑性を選択的に縮減する魔術だ。この魔術は、誰もが理解せずに利用可能であるという認識を我々に与えてくれる。したがって「ユーザーに親切だというのは、われわれの無知を癒す<技術のレトリック>である。デザイン独自のこうしたレトリックが、今日、世界的なユーザー幻想を生み出しているのだ」(13) 。「デザイン」が施された知や技術は、理解せずに利用できる。こうした知や技術による「ユーザー幻想」は、無論「デザイン」の魔術に掛けられた帰結ではある。しかし、それと同時に我々は、知や技術という魔術を理解せずに利用することが可能になるのである。言うなれば、「デザイン」を通じることで、我々は魔術に掛けられると共に魔術を掛けることが可能になる訳だ。現実さえ特定できないほど複雑化した社会に生きる我々にとって、「どれくらい簡単に次のことができるだろうか」(14) という問いに答えてくれる「デザイン」ほど、有り難いものは無い。
没入感を魔術的に方向付ける「デザイン」
魔術に掛けられたユーザーは、魔術が指し示す方向性へと没入することが可能になる。しかし、それが魔術であり盲点が伴うということを弁えているユーザーであれば、魔術が指し示す方向性に懐疑的になることもできる。一方で、「デザイン」の効力は学術や技術を理解せずに利用することを可能にすることである。そのため、「デザイン」された学術や技術を利用することで、ユーザーもまた魔術を利用することが可能になる。
つまり、没入の方向性を自己自身で構成することが可能になる訳だ。
真面目な論客ならば、未だ脱魔術化を追及するだろう。しかし、そのためには「デザイン」による恩恵を切り捨てなければならない。「デザイン」を切り捨てるということは、眼前の複雑性に真っ向から挑むということである。それが「心脳問題」のような複雑極まりない学術的テーマであれば、終わりなき脱魔術化の追及という魔術化の呪縛を呼び起こしてしまう。「どんなに時代がくだっても、どんなに知識が増大しても、その時代ごとに新たな装いのもとで、しかし本質的にはなにも変わることなく難問として繰り返し人間の前に立ちあらわれてくるという事態を認識することが、心と脳の関係を考えるさいに不可欠の前提」(15) となる訳だ。かくして「ミネルヴァの梟は、黄泉の後にようやく飛翔する」(16) 。
むしろ我々に必要なのは、既成の「デザイン」による方向付けに従事した上で、常に次の「デザイン」を自らで構成する視座である。良く言えば臨機応変であり、悪く言えば便宜主義だ。とはいえ、我々は盲点から逃れられない。全ての認識は、没入することで可能となる。それ故、現実世界の全てに適応できる学術的真理を探究するには、魔術に頼らざるを得ない。学術にせよ技術にせよ、魔術であることには変わりはないのだ。「そしてまた、この次にあなたが何かよく知らないものを手に取ったとき、初めてなのにすらすらと苦労なく使えたとしたら、ちょっと立ち止まってそれをよく調べてほしい。その使いやすさは偶然の産物ではないのだ。誰かがそれを注意深く上手にデザインしているのである」(17) 。このドナルド・ノーマンのデザイン論は、我々の「知のデザイン」にヒントを与えてくれる。既成の魔術に依存するだけではなく、自ら魔術を利用する態度が重要なのだ。
注釈
- ジル・ドゥルーズ (著)、財津理 (訳)『差異と反復』河出書房新社(1992)の全般を参照されたい。
- 「シンボル」とは、同一性を言い表す記号ではない。同一性を構成させるメディアである。形式としての同一性は、自己指示的な形式として反復的に発現している。つまり、形式としての同一性は、その内部に<形式としての同一性>と<メディアとしてのシンボル>を構成させているのである。
とはいえ、「シンボル」がメディアとして機能するためには、それ以前に<シンボル>として形式化されている必要がある。つまり、「シンボル」という反復的に発現している意味が、「圧縮」と「再認」の対象となることで顕在化していなければならないのだ。
ここで言う「圧縮」とは、無数に遍在する諸々の意味から特定の意味のみを選択する処理を言い表している。外部環境に数多の意味が反復的に発現しているが故に、我々はその複雑性を選択的に縮減しなければならない。これは、先述したトール・ノーレットランダーシュの調査が指し示す帰結でもある。つまり「圧縮」は、意味のフィルタリングとして機能するのだ。
一方の「再認」とは、「圧縮」により選択的に縮減された意味を更に選択的に縮減する処理を言い表す。意味をフィルタリングしたとしても、フィルターを通過できる意味は一つとは限らない。「再認」を遂行する観察者は、「圧縮」のフィルターで篩いに掛けられた諸々の意味から、最終的に利用する意味を特定化することが可能になるのだ。
「シンボル」という形式は、「圧縮」と「再認」を通じることで顕在化する。言わば「シンボル」としての意味性を帯びた構成物として、認識されるようになるのだ。こうしたシンボルの形式化を前提とした上で、「シンボル」のメディア化が可能となる。つまり、「シンボル」それ自体は、一度顕在化した上で潜在化するのである。
「シンボル」が顕在化している時点においては、原初的な差異として、形式としての「シンボル」とメディアとしての非「シンボル」が構成されている。つまりこの時点においては、<「シンボル」として指示されていない対象>全てが潜在化しているということである。「シンボル」とは、同一性を構成させるメディアなのであった。したがって「シンボル」の顕在化は、同一性の構成不可能性を潜在化させることで可能となる。
これを前提に言えば、「シンボル」をメディア化させることで形式化される意味は、<「シンボル」が同一性の構成不可能性を潜在化させていること>を潜在化させることになる。それ故、メディアとしての「シンボル」は、後の形式に意味論的な同一化の可能性を拡張する働きを示すのである。
「圧縮」と「再認」については、長岡克行(著)『ルーマン/社会の理論の革命』勁草書房(2006)、pp233-242を参照。「シンボル」については、長岡克行(著)『ルーマン/社会の理論の革命』勁草書房(2006)、pp236-238を参照。同一性については、吉澤夏子(著)『世界の儚さの社会学 シュッツからルーマンへ』勁草書房 (2002)、pp146-188を参照。形式とメディアの概念については、ジョージ・スペンサー=ブラウン(著)、大澤真幸(訳)、宮台真司(訳)『形式の法則』朝日出版社(1987)の全般、ニクラス・ルーマン(著)馬場靖雄(訳)『社会の芸術』法政大学出版局(2004)、pp167-174、ニクラス・ルーマン(著)、村上淳一(訳)『ポストヒューマンの人間論―[後期ルーマン論集]』東京大学出版局(2007)、pp117-135、長岡克行 (著) 『ルーマン/社会の理論の革命』勁草書房 (2006)、pp178-184を参照。
- 「一般化」とは、多くの対象へ同時的に言及することを可能とする形式である。無論形式である以上、そこには選択性が伴っている。と言うのも、ある時点において顕在化している同一性は、単一とは限らないからだ。したがって、同一性を指し示す観察者は、言及する同一性を選択しなければならないのである。とはいえ、「一般化」の対象選択は強制ではない。それは観察者の自由である。社会システム理論家は、「期待」をメディア化させることで「一般化」の形式化が成し遂げられると考える。
そもそもある「シンボル」をメディアとして位置付けることに必然性は無い。「シンボル」は常に別様にもあり得る。「一般化」が果たす機能とは、無数に遍在する「シンボル」の中から特定の「シンボル」にのみ正統性を付与する形式なのである。
以上の考察については、長岡克行(著)『ルーマン/社会の理論の革命』勁草書房(2006)、pp236-238、吉澤夏子(著)『世界の儚さの社会学 シュッツからルーマンへ』勁草書房 (2002)、pp146-188を参照。形式の概念については、ジョージ・スペンサー=ブラウン(著)、大澤真幸(訳)、宮台真司(訳)『形式の法則』朝日出版社(1987)の全般を参照。
- 形式とメディアは「地」と「図」の関係である。上述したように、「圧縮」と「再認」には選択性が伴う。社会システム理論家が位置付ける形式とは、「圧縮」と「再認」の対象となることで顕在化した意味に他ならない。一方のメディアとは、「圧縮」と「再認」の対象として選択されずに潜在化している意味である。両者は選択の産物であり、一方が他方を排除することは無い。仮に一方が消失したとすれば、「地」と「図」の関係を織り成す他方も消失することになる。
これを前提に言えば、コミュニケーション・メディアとは、コミュニケーションを顕在化させるために潜在化するメディアに他ならない。そしてコミュニケーションとは、我々の選択の産物として顕在化した形式である。
以上の考察に関しては、ニクラス・ルーマン(著)、佐藤勉(訳)『社会システム理論(上)』恒星社厚生閣(1993)、 p93、ニクラス・ルーマン(著)、村上淳一(訳)『ポストヒューマンの人間論―[後期ルーマン論集]』東京大学出版局(2007)、pp117-135 及び、ノルベルト・ボルツ(著)、山本尤(訳)『カオスとシミュレーション』法政大学出版局(2000)pp5-19、長岡克行(著)『ルーマン/社会の理論の革命』勁草書房(2006)、pp233-242、ジョージ・スペンサー=ブラウン(著)、大澤真幸(訳)、宮台真司(訳)『形式の法則』朝日出版社(1987)を参照。
- 学術により構成される「方法」は、真と非真の区別ではマークされないものを潜在化している。換言するならば、形式としての「真・非真」たる区別は、形式としての「方法」の内部に包摂されている。「方法」はメディアとしての非「方法」を潜在化することで顕在化することを可能としている。「真・非真」という区別は、人為的構成物であるが故に、別様にもあり得る偶発的な選択的産物に他ならない。したがって学術的コミュニケーションは、「方法」を顕在化することによって、「真・非真」という別様にもあり得る人為的な区別を使用し続けることができるのである。
逆に言えば、学術的コミュニケーションは、不都合な区別を非「方法」として潜在化することで潜在化させることができるということである。観察する「方法」が無いと考えられる場合は、学術的コミュニケーションに包摂されることは無いのである。
さらに付け加えるならば、形式としての「方法」に包摂されることが「真」として構成されることに直結する訳ではない。形式としての「方法」に包摂された対象は、あくまで「真・非真」の区別の対象となるに過ぎない。それ故、全ての研究成果が「真」として観察される訳ではない。だが、「非真」として観察された研究成果でも、「方法」に包摂される可能性は残されているのである。
一方で「論理」とは、研究プログラムの成果として発現した新たな研究プログラムである。この「論理」の分出により、研究プログラムは外部環境に位置付けされる他の機能システムに対し、公共性を表明することが可能になる。つまり、学問システムは他のシステムの構造上でも適用可能であると自己自身が観察している「論理」を、構造的カップリングを介することで他の機能システムに撹乱を付与するのである。
このことに関する詳細は、ニクラス・ルーマン(著)、土方昭(訳)『エコロジーの社会理論 改訳版 -現代社会はエコロジーの危機に対応できるか?』新泉社(1992)pp121-132を参照。
- この形式の形式への再参入には、<顕在的な形式>の内部に<潜在的なメディア>が発現しているというパラドクスが展開されている。と言うのも、ある形式において<潜在的なメディア>として位置付けられている対象が、別の形式においては<顕在的な形式>として位置付けられる可能性を示唆しているからだ。潜在的対象も、差異の構成を変更することで顕在的対象として注目することが可能なのである。逆に言えば、ある対象を指示した場合、自覚の有無を問わずにその対象を顕在化させていることになる。その対象を顕在化させたということは、同時的に別の対象を潜在化させていることになる。メディアは、潜在化された別の対象に含意される。それ故、ある対象を指示している観察者の立場からすれば、潜在的対象は不可避的な盲点として位置付けられるのだ。このことに関しては、ジョージ・スペンサー=ブラウン(著)、大澤真幸(訳)、宮台真司(訳)『形式の法則』朝日出版社(1987)、ニクラス・ルーマン(著)馬場靖雄(訳)『社会の芸術』法政大学出版局(2004)、pp167-174、長岡克行 (著) 『ルーマン/社会の理論の革命』勁草書房 (2006)、pp178-184、ニクラス・ルーマン(著)、村上淳一(訳)『ポストヒューマンの人間論―[後期ルーマン論集]』東京大学出版局(2007)、pp117-135を参照。
一方、上記と同時並行的に、我々は次のようなアクチュアリティにも敏感にならなければならない。すなわち、ある形式としての意味は、常に次の<形式としての意味>における継起となり得るということである。と言うのも、顕在的な形式としての意味は、常にその内部に<顕在的な形式としての意味>と<潜在的なメディアとしての意味>を分出させる差異を構成しているからだ。したがって、ある指示対象が持続的に顕在化している意味として「再認」されるためには、異なる時点の異なる文脈において、本来異なるはずの「意味」が反復的に発現していることが前提となる。さもなければ、初発の意味の<構成>は瞬時に潜在化してしまうのだ。それ故、我々がある形式によって指示された対象を持続的に「再認」することを可能としているのは、顕在的な形式としての意味と<顕在的な形式としての意味>を<同一の意味>として「圧縮」している場合に限定される。この場合に限り、我々は「顕在的な形式としての意味」が、「顕在的な形式としての意味」に対して、自己指示を遂行していると認識することができるのである。したがって、我々は大澤真幸による次のような説明を追認することになる。すなわち、「自己指示的な形式をとった表現が指し示す<意味>は、それゆえ、「同一性(ある特定の値=意味であること)と非同一性(どの特定の値=意味でもないこと)の同一性」とでも規定するよりほかない特殊な様態において、その同一性を保持している」(大澤真幸、『行為の代数学 スペンサー=ブラウンから社会システム論へ』、1999、p94)。これらの考察を前提に言えば、形式の形式への再参入は、自己指示的な形式を追認しているということになる。
- ミルチャ・エリアーデ(著)、風間敏夫(訳)『聖と俗―宗教的なるものの本質について 』法政大学出版局(1969)p194-195を参照。
- アブラアム・モール(著)、古田幸男(訳)『生きものの迷路』法政大学出版局(1992)、p35を参照。
- ノルベルト・ボルツ(著)、村上淳一(訳)『意味に餓える社会』東京大学出版会(1998)、p53を参照。
- 宮台真司(著)、速水由紀子(著)『サイファ覚醒せよ-世界の新解読バイブル』筑摩書房(2000)、p144を参照。
- ノルベルト・ボルツ(著)、村上淳一(訳)『意味に餓える社会』東京大学出版会(1998)、p230を参照。
- ノルベルト・ボルツ、村上淳一、『世界コミュニケーション』、2002、p219を参照。
- ノルベルト・ボルツ、村上淳一、『世界コミュニケーション』、2002、p220を参照。
- ドナルド・A・ノーマン (著)、野島久雄 (訳)『誰のためのデザイン?―認知科学者のデザイン原論』新曜社 (1990)、p85を参照。
- 山本貴光 (著)、吉川浩満 (著)『心脳問題―「脳の世紀」を生き抜く』朝日出版社 (2004)、p197を参照。
- ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル (著)、藤野渉 (訳)、赤沢正敏 (訳)『法の哲学(1)』中央公論新社 (2001)を参照。
- ドナルド・A・ノーマン (著)、野島久雄 (訳)『誰のためのデザイン?―認知科学者のデザイン原論』新曜社 (1990)、p86を参照。
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