ポスト・ヒューマンの魔術師

「自称人間」の時代からポスト・ヒューマンの時代へ。

意識を無意識的に操作する技術

  1. ポスト・ヒューマンと自称「人間」:はじめに
  2. 単純性に没入する意識
  3. 意識を無意識的に操作する技術
  4. 学術と技術の魔術化
  5. 自己言及的パラドクス化の展開操作による「デザイン」
  6. 「動物」としての<自分>と「人間」としての<私>
  7. <自称「人間」>たちの「動物」的な政治
  8. <自称「人間」>たちの法・道徳・倫理
  9. 魔術的な没入を促す経済
  10. 動物的な、あまりに動物的な。
  11. ポスト・ヒューマンと自称「人間」:結論

無意識に準拠する意識

 日常において、意識が無意識の業績に気付くことは稀である。意識の観点に立てば、身体の感覚器官が無意識的に捨象した情報や選択肢が、不可避的な盲点となる。意識を歴史的に調査したジュリアン・ジェインズが述べたように、「意識が心の営みに占める割合は、私たちが意識しているよりはるかに小さい。というのも、私たちは意識していないものを意識することはできないからだ」(1)。このことに関連して、トール・ノーレットランダーシュは、フロイトを想起した。すなわち、意識が無意識的な現象を認めるためには、意識と無意識との間に葛藤が生じることが必要条件となると考えたのだ(2)しかし、仮にそうだとすれば、意識が上機嫌な場合には、それが意識的な経験なのか無意識的な現象なのかを区別する手立てが無いということになる。葛藤があるからこそ、区別できるのだ。それ故、ノーレットランダーシュは次のような疑問に直面するのである。「人間は不快なときにしか自由意思を持たないのだろうか。それとも、気分のいいときにも自由意思はあるのだろうか。そうだとしたら、それは誰の自由意思なのか」(3)

 このパラドクスに対して、ノーレットランダーシュは、自由意思を持つ<私>と身体レベルの<自分>を区別することで対応した。そして、<私>は<自分>が構成した虚構的な幻想だと言う。すなわち「<私>の経験では、行動するのは<私>ということになる。感じるのも<私>、考えるのも<私>だ。だが、実際それをしているのは<自分>だ。私は、私自身の、私にとってのユーザーイリュージョンなのだ」(4)。この見解は、多方面の研究領域へ接続できる。マイケル・ポラニーならば、このことを<暗黙知>(5)と結び付けて語るだろう。ジェイムズ・ギブソンならば、「アフォーダンス」(6)を引き合いに出すはずだ。

 意識する<私>は、身体の感覚器官に位置する無意識の<自分>が選択的に縮減した複雑性を事後的に観察する。閾上の<私>は、閾下の<自分>が用意した情報や概念の選択肢から、改めて<私>としての選択を遂行する。<自分>が捨象した情報や概念を、<私>は知ることができない。言い換えれば、<自分>が選択しなかった情報や概念は、<私>の不可避的な盲点となる。日常の<私>は、自ら発現させた盲点と同時に、<自分>が等閑視した盲点に関しても等閑視することになる。「意識されるはるか以前に、無意識のプロセスによって情報が処分され、その結果、私たちは一つのシミュレーション、一つの仮説、一つの解釈を目にする。しかも、私たちに選択の自由はない(7)

 以上の考察を前提に言えば、無意識的に作動する身体の感覚器官は、意識が没入する方向性を指し示している。意識する<私>は、閾下の<自分>が選択した方向性の範疇の中で、没入対象を選択するのだ。

環境管理型社会におけるメディア

 既に述べたように、意識する<私>は、身体の感覚器官に位置する無意識の<自分>が用意した情報や概念の選択肢から、改めて<私>としての選択を遂行する。しかし、情報や概念を選択するのは、<自分>だけではない。この世界には、他者もいる。コミュニケーションの舞台において、我々は他者が用意した情報や概念の選択肢から、改めて<自分>としての選択を遂行することがある。よって以下からは、<自分>と他者の関係を念頭に置いた上で、意識する<私>が如何にして没入感を獲得できるのかについて考察していく。

規律訓練型社会から環境管理型社会へ

 <自分>と他者との関係を考察するためには、思想家の東浩紀が説明している「環境管理型社会」を無視する訳にはいかない。東によれば、現代社会は、規律訓練型社会(8)から環境管理型社会(9)へと移行した。前近代的な権力は、命令と服従の形式から構成される君主型の権力であった。しかし前期近代になると、社会の構成員が規律訓練的に主体化されることで、自発的に権力に服従する形式へと移り変わった。とりわけ教育システムや組織システムでは、構成員の内面を主体化させることで、自発的に権力に迎合させていた。社会秩序は、物理的な拘束以外にも、構成員の主体性によって支えられていたのである。

 規律訓練型社会では、構成員が社会に好都合な行為を主体的に遂行することが求められていた。しかし一方で、環境管理型社会は、内面的な主体性や自発性は加味されない。あくまで外面的な技術的データベースのみで事足りてしまう。この典型的な例が、バイオメトリクスやリモートセンシングによる監視技術だ。これらの技術を実装したアクセス・コントロールならば、指定された人間のみの入退室を許可することで、行為を制御することが可能になる。内部の構成員のみを入室可能として設定しておけば、部外者を排除することも可能だ。こうした環境管理において、構成員の内面性は重視されない。

人間への信頼からシステムへの信頼へ

 規律訓練型社会から環境管理型社会への移行は、複雑性の選択的な縮減に基づいていた。規律訓練に比して、環境管理が機能するようになったのである。規律訓練型社会は、信頼に準拠しなければ機能しない。しかし信頼は、常に別様にもあり得る人為的構成物だ。観察者は、別の観察者が抱く自己信頼を信頼する。自己信頼を抱かない観察者を信頼することはできない。自己自身の信頼性を否定する観察者を信頼しようとすれば、我々は「嘘吐きのパラドクス」に直面する。ある観察者を信頼するには、その観察者が没入している自己信頼と同一の方向性へ没入する必要がある訳だ。とはいえ、信頼の元を辿れば、それは自己言及的に構成された虚構的な自己信頼に過ぎない。我々は、現実的には信頼すべきではない相手でも、虚構的に信頼してしまうことがある。これについては、振り込め詐欺の被害者たちや、国民年金を騙し盗られた大多数の<愛国者>が教えてくれることだ。

 したがって、信頼形成は、高度に複雑である。他者を信頼するのは現実的ではない。抽象化して言えば、もはや<他者を信頼できないということ>だけを信頼する自己のみが、虚構的に信頼されるのである。そこで要請されるのが、他者への信頼と機能的に代価可能な等価物である。現代社会は、その等価物として、学術と技術の機能に注目した。その結果顕在化したのが、環境管理型社会なのである。

注釈

  1.  ジュリアン・ジェインズ(著)、柴田祐之(訳)『神々の沈黙 -意識の誕生と文明の興亡』紀伊國屋書店 (2005)を参照。
  2.  トール・ノーレットランダーシュ (著)、柴田裕之 (訳)『ユーザーイリュージョン―意識という幻想』紀伊國屋書店 (2002)、pp296-306を参照。
  3.  同上、p306を参照。
  4.  同上、p357を参照。
  5.  マイケル・ポラニー(著)、高橋 勇夫 (訳)『暗黙知の次元』筑摩書房 (2003)を参照。

  6.  ジェイムズ・J・ギブソン(著)、 古崎敬(訳)『生態学的視覚論―ヒトの知覚世界を探る』サイエンス社(1986)を参照。
  7.  トール・ノーレットランダーシュ (著)、柴田裕之 (訳)『ユーザーイリュージョン―意識という幻想』紀伊國屋書店 (2002)、pp233を参照。
  8.  ミシェル・フーコー(著)、田村俶(訳)『監獄の誕生―監視と処罰』新潮社(1977)を参照。
  9.  「環境管理型社会」は東浩紀の言葉だが、そのバックグラウンドにはドゥルーズの影響がある。ドゥルーズは、フーコーの業績を引き継ぎ、規律訓練型社会から管理社会への移行を指摘したのである。これについては、ジル・ドゥルーズ(著)、宮林寛(訳)『記号と事件―1972-1990年の対話』河出書房新社(1996)及び、東浩紀(著)、大澤真幸(著)『自由を考える―9・11以降の現代思想』NHKブックス(2003)を参照。

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