ポスト・ヒューマンの魔術師

「自称人間」の時代からポスト・ヒューマンの時代へ。

単純性に没入する意識

  1. ポスト・ヒューマンと自称「人間」:はじめに
  2. 単純性に没入する意識
  3. 意識を無意識的に操作する技術
  4. 学術と技術の魔術化
  5. 自己言及的パラドクス化の展開操作による「デザイン」
  6. 「動物」としての<自分>と「人間」としての<私>
  7. <自称「人間」>たちの「動物」的な政治
  8. <自称「人間」>たちの法・道徳・倫理
  9. 魔術的な没入を促す経済
  10. 動物的な、あまりに動物的な。
  11. ポスト・ヒューマンと自称「人間」:結論

ヴァーチャル・リアリティにおける「没入感」

 出発点として、従来の人間とポスト・ヒューマンに共通する世界観を定義しておこう。我々は、学術と技術を利用することで、自己が生きる世界を<現実>として構成している。無数に遍在する仮想現実や拡張現実から最もリアリティを認識できる世界を<現実>として選択しているのだ。仮想現実主義者マイケル・ハイムが述べたように、ヴァーチャル・リアリティそれ自体は、我々に特定の<現実>を認識させるように構成されている。最も直接的に<現実>の認識を可能としているのは、「没入感」だ。「没入感とは、外界から感覚器官に入ってくる情報を遮断され、代わりに仮想世界についての情報を与えられたユーザーが、実際にいる場所とは別の場所にいるように感じることである」(1)

 このキーワードは、昨今のトランス・ヒューマニズムが設計する高度な技術を参照せずとも、例示できることである。たとえば、コンピュータの画面に没入しているユーザーは、もはや画面の外側に偏在する他の現実を<現実>として認識していない。ユーザーは、画面に映し出される現実のシミュレーションを<現実>として認識しているのだ。それ以外にも、科学技術は様々な没入感を与えてくれる。ハイファイステレオ装置を使用すれば、聴覚的な没入感を獲得できる。マジック・アイやヘッド・マウンテッド・ディスプレイならば、視覚的な没入感を獲得できる。言わばヴァーチャル・リアリティにおける没入感とは、認識可能な<現実>を選択することを言い表している。没入感に浸る者たちは、それ以外の現実を<現実>として観察してない。言い換えれば、我々は、純然たる現実の全てを認識している訳ではないということになる。

 だが一方で、マイケル・ハイムは次のように注意を促している。「すべては仮想現実である」などという軽薄な誇張に耳を貸してはならない。目を向けるべきは現実の変化であり、これは、人工的な世界に暮らす自分の姿を鮮明に想像できるようになることである。一次的な現実と仮想現実との違いを曖昧にしてはならない」(2) 。つまり、特定の現実のみを<現実>として認識していたとしても、認識していない純然たる現実を等閑視してはならないということだ。しかし、以下に示すように、この視点には盲点がある。

 仮に<純然たる現実の全て>を認識していたとしても、その認識が既に形成された没入感による<現実>の選択である可能性を否定することはできない。つまり、<純然たる現実の全てを認識していること>を認識するためには、没入する必要があるのだ。そして、没入している時点で既に、その認識は<純然たる現実の全て>を捉えていることにはならなくなる。無論、全てが仮想現実なのかを決定することはできない。しかし、現実的な現実と虚構的な現実が同一であると言い切ることもできないだろう。

 言い換えれば、我々は選択した現実に没入することで、現実を認識しているということだ。ニック・ボストロムが力説する「シミュレーテッド・リアリティ」(3) を念頭に置くならば、<純然たる現実>と我々が認識する現実が一致すると断定することはできない。双方の現実には、差異がある。我々が現実に没入している時点で既に、その現実は仮想化と拡張化が施された<虚構的な現実>である可能性が生じるのだ。

意識における複雑性の選択的な縮減

 この観点は、様々な研究領域に接続することが可能である。たとえば、ベンジャミン・リベットの研究が明らかにしたように、我々の意識的経験が発現するためには0.5秒の脳活動が必要であるということを指し示している(4) 。つまり、我々が認識を遂行しているのは、実際の認識対象が発現した時点よりも過去ということになる。我々が<現在の世界>を認識している時点で既に、現在の世界は事前の出来事となっているのだ。したがって意識は、身体が0.5秒前に知覚した対象を認識しているということになる。我々の視点に映る現在とは、虚構的な現在に過ぎない。

 一方、トール・ノーレットランダーシュの調査(5) が明確に指し示すように、我々の身体の感覚器官が受信している情報量は、毎秒約1100万ビットに至る。だが我々の意識は、この膨大な情報の全てを処理することができない。高く見積もったとしても、意識が瞬時に処理できる情報量は40ビット程度だ。たとえば下條信輔が述べたように、「視知覚情報処理の大部分は、われわれの意識にとってアクセス不能であり、われわれはたかだかその処理の結果(=出力)を知覚現象として経験するにすぎない」(6)つまり我々の意識は、意識閾の外部となる無意識の領域において既に選別された情報を認識しているに過ぎないのである。

 よって、我々の意識は、認識対象に伴う複雑性を選択的に縮減した上で認識を遂行しているということになる。意識は、外部環境のカオスから身を守らなければならない。そしてこの処理は、時間を要する。「選抜や厳しい選択がはじめて、データから情報を、そして情報から利用可能な「知」をつくるからだ。だから、フィルターにかけること、すなわち無視したり忘れたりすることが必要になる」(7)故に我々は、外部環境に遍在する情報の全てを知ることができないのである。

不可避の盲点

 言い換えれば、我々が知ることができる外部環境は、選択された一部に限られるということである。全てを見渡すことはできないのだ。それ故「近代の知は、「外部の」世界を引き合いに出すのではなく、別の知を引き合いに出す。私は、自分の小さな箱に明かりをともすだけで他のすべてを無視する(つまりブラックボックス化)という条件の下でのみ、知の探究者として一人前になれるのだ。そこから生まれるのは、理解しないままで利用せざるをえないような知である。(8) たとえばレトリカルな言語は、概念に伴う複雑性を別の概念で縮減するフィルターである(9) 。だが一方で、<概念の複雑性を縮減する概念>に伴う複雑性を縮減するためには、またしても別の概念を利用しなければならない。無限後退に陥るのだ。とはいえ、我々は日常的にこうした無限後退を配慮している訳ではない。時間や生態エネルギーに制約がある以上、全てに対処することはできない。如何なる概念を利用するのかは、暫定的に決定する必要があるのだ。つまり、我々が既知の領域を拡大した場合、同時的に無知の領域も拡大しているのである。それ故、我々がある対象を認識した場合、その認識には不可避的に盲点が伴う。没入対象とその盲点は、「地」と「図」の関係なのだ。

注釈

  1.  マイケル・ハイム(著)、小沢元彦(訳)『バーチャル・リアリズム 自然とサイバースペースの共存』三交社(2004)、p14を参照。
  2.  マイケル・ハイム(著)、小沢元彦(訳)『バーチャル・リアリズム 自然とサイバースペースの共存』三交社(2004)、p64を参照。
  3.  Bostrom, Nick 2002 Are You Living in a Computer Simulation? Philosophical Quarterly, Vol. 53, No. 211, pp. 243-255 URL:http://www.simulation-argument.com/simulation.html(閲覧時間:2008/04/13 18:28)を参照。
  4.  ベンジャミン・リベット (著)、下條信輔 (訳)『マインド・タイム 脳と意識の時間』岩波書店 (2005)、pp39-104を参照。
  5.  トール・ノーレットランダーシュ (著)、柴田裕之 (訳)『ユーザーイリュージョン―意識という幻想』紀伊國屋書店 (2002)、pp160-197を参照。
  6.  下條 信輔 (著)『サブリミナル・マインド 潜在的人間観のゆくえ』中央公論社 (1996)、p169を参照。
  7.  ノルベルト・ボルツ(著)、村上淳一(訳)『意味に餓える社会』東京大学出版会(1998)、p232を参照。
  8.  ノルベルト・ボルツ(著)、村上淳一(訳)『意味に餓える社会』東京大学出版会(1998)、p52を参照。
  9.  ジョージ・レイコフ (著)、マーク・ジョンソン (著)、渡部昇一 (訳)、楠瀬淳三 (訳),下谷 和幸 (訳)『レトリックと人生』大修館書店(1986)を参照。

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