ポスト・ヒューマンの魔術師

「自称人間」の時代からポスト・ヒューマンの時代へ。

機能的等価物による「負担免除」

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概要

 ニーチェの業績をシステム理論的に再記述する場合、人間と非人間の区別に伴ったパラドクスは、超人と末期的人間の区別によって脱パラドクス化されていることがわかる。とはいえ、システム理論が明らかにしているように、如何なる区別もパラドクス化する運命にある。それ故、いずれは超人と末期的人間の区別もパラドクス化することになるだろう。その時システム理論家は、更に新たな区別を付与しなければならない。

ツァラトゥストラが直面したパラドクス

 ツァラトゥストラが告知した超人の思想は、万人に受け入れられた訳ではない。ツァラトゥストラの熱弁を聴いていた大衆たちは、実際のところ、綱渡り芸を観に来ていたのである。だから人間が「超克されるべき存在」であるという熱弁に対して、大衆たちは、「綱を渡る存在」としての人間を要求した。そこにいた綱渡り師は、それが自らの役目であると悟り、慌てて中断していた綱渡りを再開しようとする。

 一方で、綱渡り芸が中々披露されない状況に、今度は道化師が参入してくる。道化師は、未だ綱を渡り切れていない綱渡り師を軽妙に飛び越え、軽々しく綱渡りを披露する。綱渡り師は、道化師がいとも簡単に綱渡り芸を披露したことを前にして、愕然と肩を落とす。集中力が途切れた綱渡り師は、不意に綱から落下してしまう。ツァラトゥストラに対する大衆の「野次」は、その超人思想を台無しにした訳ではあるが、道化師の参入は、綱渡り芸を台無しにした訳だ。

 一連の茶番は、ツァラトゥストラの超人思想に対する誤謬を招いた。綱渡り師は、危険への没入を天職とすることで、超人思想のパロディを描くに至った。言葉通りの意味で、自らの死を以って未来へと「超えて」いくことを狙ったのだ。だが一方で道化師は、この綱渡り師それ自体の振る舞いを嘲笑うかのようにパロディ化している。言葉通りの意味で「超人」を再現しようとする綱渡り師には、アイロニカルに微笑む道化師に対抗するほどの余裕が無かった。だから道化師は、安々と綱渡り師自身を「跳び越えた」のである。

 そして結果的にツァラトゥストラは、道化師の一員として嘲笑されることになる。しかしながらツァラトゥストラは、道化師のアイロニカルな微笑みに対して、オルタナティブを提示できずにいた。だからツァラトゥストラは、自ら道化師として振舞うことで、道化師自身を跳び越えようとする。つまり、自らの超人思想をパロディ化する道化師の振る舞いそれ自体をパロディ化することによって、逆に超人思想をパロディ化から守ろうとした訳だ[1]。

「ノイラートの船」

 この超人と末期的人間の区別に伴うパラドクスは、端的に言えば、科学哲学上で頻繁に引き合いに出される「ノイラートの船」という有名な逆説で言い直すことができる。超人、すなわちポスト・ヒューマンは、人間後に位置する。言わば、人間を超克する存在だ。しかしながら周知のように、こうした「超克」の概念は、直ぐに「ノイラートの船」を呼び起こす。それによれば、船は既に出港している。船を満喫してきた乗客が今更その船に不平を言ったとしても、自己矛盾だ。船の上には、限られた工具しかない。周辺は海で囲まれているが故に、新たな工具を調達することも不可能だ。

 よって船の改良にも限界が伴う。たとえば、モダンという船をポスト・モダンへと改良するためには、モダンに依拠せざるを得ない。同様に、ヒューマンという船をポスト・ヒューマンへと改良するためには、ヒューマンに依拠せざるを得ない。したがって、ポスト・ヒューマンはヒューマンへと回収される。

 これは概念遊戯と言うよりは、自明の理と言える。ニーチェが聖像を破壊するためには、人為的な構成物である哲学というハンマーを持たなければならなかった。我々が超人として末期的人間を軽蔑するためには、既存の末期的人間が構成した知性や概念に依拠せざるを得ない。たとえトランス・ヒューマニズム的な科学技術によって脱人間化を果たそうとしても、無論その科学技術こそが人間の産物なのである。

<脱人間化という人間化>と<人間化という脱人間化>

 したがって、超人と末期的人間の区別に伴うパラドクスとは、超人化が人間化を果たしてしまうという背理に直結する。ツァラトゥストラが最終的に道化師として振舞わざるを得なかったように、ポスト・ヒューマンとして振舞い続けた場合、逆説的にも、人間化してしまうのである。このパラドクスは、人間中心主義者が「自称人間」になるというパラドクスと同調している。つまり、脱人間化の追及が人間化に結び付く一方で、人間化の追及は脱人間化に結び付くのだ。超人と末期的人間の区別には、およそこのようなパラドクスが浮上する。したがってポスト・ヒューマニティ論者たちは、この区別を脱パラドクス化するための新たな区別を構成し続けなければならないのである。

 観察者が如何なる区別を付与するのかについては、自由と考えて差し支えは無い。ある一つの区別に没入することは、可能ではあるが、必然ではない。言い換えれば、ある区別が別の区別よりも優位であることを指し示す区別の構成は、可能ではあるが、必然ではない。あらゆる区別は、機能的に等価なのである。

 したがって、パラドクスの展開操作は次のように言い換えることができる。すなわち、ある区別がパラドクス化した場合、その区別と機能的等価物である別の区別を構成することによって、脱パラドクス化することが可能になるという訳だ。たとえば、<人間と非人間の区別>と<超人と末期的人間の区別>は、機能的に等価である。したがって、一方がパラドクス化すれば、他方の区別を構成することによって脱パラドクス化を果たすことが可能となる。

脱パラドクス化による「負担免除」

 このある区別から別の区別への代価可能性は、ヨハン・ゴットフリード・ヘルダーが提唱した「欠陥動物」[2]としての人間像からアルノルト・ゲーレンの「負担免除論」[3]への過程に、正確に対応している。人間の本能や身体の感覚器官は、他の動物に比して未発達である。たとえば動物の母親は、子供に対して母乳を与えることができる。この振る舞いは無論本能的である。したがって、確定論的に説明することができるのだ。これに対して人間は、多種多様な感情を持っている。自由に思考することができる。新哺乳類脳で創発する感情はしばしば、原始爬虫類脳における原始情動や旧哺乳類脳で生じる基本情動を棄却してしまう。それ故、人間の母親は、子供に母乳を与えること以外にも、様々な選択肢を持つことになる。虐待という選択肢や「赤ちゃんポスト」に投函するという選択肢は、この典型的な一例だ。こうした例からも明らかなように、人間は「純粋の本能、すなわち着実な効果をもつ生れついての運動の型、一定の行動図式にきちんと合っている運動の型を持ち合わせていないので、その欠陥には生命の危険さえ感ぜられる」[4]のである。

 こうしたヘルダーの立論を継承したゲーレンは、人間の「欠陥動物」としての負担を免除する概念を提唱している。「すなわち、人間の本質的微標は、他の点ですでに証明ずみの生物学上の見地から見ると、『欠陥』ないし『負担』ということである。このことは人間の頼りない器官装備全体についても、自分の適応しない世界、不意打ちの場にさらされているという事実についてもあてはまる。自分の存在を保つという課題はこれによって新たに別の形をとって表わし得る」[5]。

 我々は、このヘルダーからゲーレンまでの過程を観察することで、次のようなヒントを獲得できる。つまり、脱パラドクス化を果たすべく構成された区別は、パラドクス化している区別の負担を軽減する形式なのだ。ある区別の負担を免除している別の区別もまた、負担を強いられることになる。だからまた新たな区別を付与することで、その区別の負担を免除していかなければならない。「すなわち、人間はまさしくこの負担から自分の生命を繫いで行く道をどうして講じて行ったものかをじっくりと考え、そのあげくにいわば自分の不適応性を利用して世界と自分とを見通して世界を自分の手中に収めることを知るのである。人間の『中心逸脱』とか『生の外に位置する立場』等々と言われ、たいていの場合直ぐに『形而上学的』に解釈されている事柄が証明し得る正当性を有していることの核心はこの点にあるのである」[6]。

 ニーチェの業績をシステム理論的に再記述するならば、人間と非人間の区別に伴った人間中心主義的なパラドクスは、超人と末期的人間の区別によって脱パラドクス化される。人間と非人間の区別の負担が、超人と末期的人間の区別によって、免除されるのである。しかしながら、超人と末期的人間の区別にも負担は生じる。ツァラトゥストラは確かに超人思想の告知者であった。だが彼自身は超人ではない。彼自身は、超人を自称したことがない。つまり彼は、人間なのだ。だから超人思想にも負担が生じる。それ故我々は、機能的に代価可能な別様の区別を構成することで、超人と末期的人間の区別に伴った負担を免除していかなければならない。ツァラトゥストラが自ら道化師として振舞うことで、超人思想を嘲笑したあの道化師自身を跳び越えようとしたように、我々は、機能的等価物による「負担免除」を援用した脱パラドクス化を目指すのである。

脚注

[1] フリードリッヒ・ニーチェ(著)、吉沢伝三郎(訳)『ニーチェ全集〈9〉ツァラトゥストラ 上』筑摩書房(1993)を参照。

[2] ヨハン・ゴットフリード・ヘルダー(著)、大阪大学ドイツ近代文学研究会(訳)『言語起源論』法政大学出版局(1992)、pp21-27を参照。

[3]  アルノルト・ゲーレンの「負担免除論」は、ヨハン・ゴットフリード・ヘルダーの延長にあると考えて良い。ゲーレンの「負担免除」の形式は、言わばヘルダーが述べた「欠陥動物」としてのパラドクスを脱パラドクス化するための操作だったのだ。「負担免除論」については、アルノルト・ゲーレン(著)、亀井裕(訳)『人間学の探求』紀伊国屋書店 (1999)、pp36-54、pp219-220及び、アルノルト・ゲーレン(著)、平野具男(訳)『人間』法政大学出版局(1985)を参照。

[4] ヨハン・ゴットフリード・ヘルダー(著)、大阪大学ドイツ近代文学研究会(訳)『言語起源論』法政大学出版局(1992)、pp21-27を参照。

[5] アルノルト・ゲーレン(著)、亀井裕(訳)『人間学の探求』紀伊国屋書店 (1999)、p49を参照。

[6] 同上。


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