ところで、こうした既存の二項図式から後続の二項図式へのシフトについては、何もニーチェのように重い哲学的なハンマーを振る回さなくとも、理論的な方法論として説明することができる。挑発的なまでに単純化して言えば、それは<区別>と<区別>を区別することで可能となる。すなわち、既存の<人間と非人間の区別>と<超人と末期的人間の区別>とを区別することによって、我々は型に嵌った人間を破壊すると同時に、型破りの人間を創造することが可能となるのだ。ドイツのシステム理論家ニクラス・ルーマンは、この区別から区別への展開操作を的確に理論化している。したがって以下からは、ニーチェの業績をシステム理論的に再記述することにしよう。
形式とメディアを比較した場合、形式は顕在化している。それ故、観察対象として発現するのは常に形式側である。「大量の諸要素が緩やかに連結した、ほとんど自己規定を欠くこの媒質に、言われたこと、読まれたことが型押しされる。大量の諸要素が緩やかに連結したものと、緊密に連結したものとが出会ったときは、柔らかな地面に足跡が残るように、それぞれの場合に緊密な連結の方が勝つ」[3]。形式とメディアを区別した観察者は、観察対象を選択することが可能になる。<リジットに圧縮された意味の関係性>と<ルーズに結び付けられた意味の集積体>とを区別することで、観察者は<リジットに圧縮された意味の関係性>を再認することができるのだ。つまり、「媒体はさまざまな選択の潜在的可能性と捉えることができ、形式の刻印を帯びたものとして選択が行われる」[4]ということである。
これらの考察を前提とすれば、形式として顕在化した観察対象の背後には、メディアとして潜在化している別の選択肢が眠っているということになる。観察者は、この潜在的な選択対象を観察することができない。その潜在的な選択対象を観察するということは、新たに別の形式とメディアの区別を付与するということである。言い換えれば、形式とメディアにおける差異の境界を再設定することで、メディアに位置付けされていた<ルーズに結び付けられた意味の集積体>を観察しようとする訳だ。しかし、観察者の立場からすれば、その潜在的な選択可能性は不可避の盲点である。仮にその新たな区別で事前に潜在化していた選択対象を観察することに成功したとしても、また別の潜在的な選択対象を発現させてしまう。一つの盲点を埋め合わせようとすれば、別の盲点が発現してしまうのだ。したがって、如何なる観察にも、盲点が伴う。
しかし、これはパラドクスである。区別の根拠を観察することが新たな区別を付与することを言い表すならば、区別の根拠の根拠を観察することもまた新たな区別を付与することになるからだ。もし最終的な根拠を観察しようとするならば、観察者は無限後退に陥る。「もし観察者が神の視点をもちうるなら、すなわち、どのような世界(空間)にも属していないものとして立ち現れることができるなら、観察者は世界の全体を一望のもとに眺めて、世界をそれ自体としてまるごと同定することができるはずであり、したがって、意味の同定を確保するための『無限の操作』を必要としないだろう。しかしそのような観察者は、この世界の内部に存在しない」[5]。
無論、その境界を改めて観察することは可能である。しかし、その観察が遂行された時点においては、同時的にその境界を観察することはできない。その境界を観察するということは、新たな区別を付与するということだからだ。新たな区別が付与されれば、もはや既成の境界は更新されている。したがって、形式として顕在化した観察対象のみを観察できる観察者には、この境界は不可避の盲点となる。ある観察者は自己の観察に伴うパラドクスを同時的に観察することができない。そのパラドクスは、常に事後的に発見される。つまり観察者は、形式か否かもわからず、メディアか否かもわからない境界を設定することによって、観察を可能としているのである。
したがって、ある区別に帯びているパラドクスを発見した観察者は、新たに別の区別を付与することで、そのパラドクスを隠蔽することが可能になる。しかし、新たに別の区別を付与した観察者は、その新たな区別に伴うパラドクスを発見することになる。それ故、観察者は更に新たな区別を付与することで、そのパラドクスを隠蔽する。つまり観察者は、パラドクスの発見と隠蔽の連続を辿ることで、観察を展開していくのである。
無論、<パラドクスの隠蔽>と<パラドクスの発見>を区別することにもまた、パラドクスは伴う。しかし、この区別に伴うパラドクスも、新たな<パラドクスの隠蔽>と<パラドクスの発見>の区別を付与することで展開することが可能である。と言うのも、同じ差異を構成するように観える区別でも、実際はその時点次第で異なる差異を構成しているからだ。つまり観察者は、この絶え間無いパラドクス化と脱パラドクス化の循環的な連続を辿ることで、観察を可能としているのである。
以上の考察を背景とするなら、システム理論とは、区別を構成し続ける理論である。どんな区別でも構わない。区別するということは、事前に<付与する区別>と<その他の無数に遍在する諸区別>とを区別しているということだからだ。如何なる区別も、必然ではないが、可能ではある。パラドクス化と脱パラドクス化の循環的な連続を辿ることで、観察者は新たな盲点を見落としていくと同時に、新たな観察対象を発見していくのである。
[2] 本レポート(ウェブサイト)では、スペンサー=ブラウンの形式算法ではなく、ルーマンが再記述した現象学的な形式概念を採用している。両者の差異については、ジョージ・スペンサー=ブラウン(著)、大澤真幸(訳)、宮台真司(訳)『形式の法則』朝日出版社(1987)及び、ニクラス・ルーマン(著)、佐藤勉(訳)『社会システム理論(上)』恒星社厚生閣(1993) 、p93を参照。
[3] ニクラス・ルーマン(著)、村上淳一(訳)『ポストヒューマンの人間論―[後期ルーマン論集]』東京大学出版局(2007)、p66を参照。
[4] ノルベルト・ボルツ(著)、識名章喜(訳) 、足立典子(訳)『グーテンベルク銀河系の終焉 -新しいコミュニケーションのすがた』法政大学出版局(1999)、p42を参照。
[5] 吉澤夏子(著)『世界の儚さの社会学 シュッツからルーマンへ』勁草書房 (2002)、p158を参照。
[6] バートランド・ラッセル(著)、高村夏輝(訳)『論理的原子論の哲学』ちくま学芸文庫(2007)を参照。
[7] ニクラス・ルーマン(著)、土方昭 (訳)、土方透 (訳)『宗教論--現代社会における宗教の可能性』法政大学出版局 (1994)、p73を参照。