ポスト・ヒューマンの魔術師

「自称人間」の時代からポスト・ヒューマンの時代へ。

パラドクス化と脱パラドクス化の循環

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概要

 ニーチェに倣う識者は、「人間とは何か」というイマニエル・カント的な問題提起に没入することは無い。ニーチェに倣うならば、人間と非人間の二項図式を超人と末期的人間の二項図式へと代価することによって、人間の有限性故の哲学的な堂々巡りから脱却することを目指すだろう。

 ところで、こうした既存の二項図式から後続の二項図式へのシフトについては、何もニーチェのように重い哲学的なハンマーを振る回さなくとも、理論的な方法論として説明することができる。挑発的なまでに単純化して言えば、それは<区別>と<区別>を区別することで可能となる。すなわち、既存の<人間と非人間の区別>と<超人と末期的人間の区別>とを区別することによって、我々は型に嵌った人間を破壊すると同時に、型破りの人間を創造することが可能となるのだ。ドイツのシステム理論家ニクラス・ルーマンは、この区別から区別への展開操作を的確に理論化している。したがって以下からは、ニーチェの業績をシステム理論的に再記述することにしよう。

システム理論の観察の観察

 ニクラス・ルーマンのシステム理論は、徹底的に構成主義的な差異理論である。その抽象化された理論展開でまず特筆すべきことは、「実行可能性」だ。「それによれば、われわれは学問の『真の道』を断念して、『合っている』もので満足しなければならない。合うものはすべていける。理論は真実なのではなく、隠された認識の部屋を開けるキイであり、いつでももっとよく合うキイに取り替えられるものである。だから、理論は現実に合えばよいのであり、『狷介』である必要はない」[1]。したがって、システム理論に依拠する場合、「客観性」などといった概念は、眼中から無くなるのである。

形式とメディアの区別

 ルーマンは、ジョージ・スペンサー=ブラウンの形式概念を現象学的に再記述している[2]。それによれば、我々はまず区別から出発しなければならない。システム理論では、フリッツ・ハイダーに倣い、形式とメディア(媒質・媒体)とを区別するところから出発している。形式は、緊密に連結された諸要素である。諸要素のそれぞれに帯びている意味の関係性は、リジットに結び付けられている。一方のメディアは、緩やかに連結された諸要素だ。したがって、ルーズに結び付けられた意味の集積体と言える。

 形式とメディアを比較した場合、形式は顕在化している。それ故、観察対象として発現するのは常に形式側である。「大量の諸要素が緩やかに連結した、ほとんど自己規定を欠くこの媒質に、言われたこと、読まれたことが型押しされる。大量の諸要素が緩やかに連結したものと、緊密に連結したものとが出会ったときは、柔らかな地面に足跡が残るように、それぞれの場合に緊密な連結の方が勝つ」[3]。形式とメディアを区別した観察者は、観察対象を選択することが可能になる。<リジットに圧縮された意味の関係性>と<ルーズに結び付けられた意味の集積体>とを区別することで、観察者は<リジットに圧縮された意味の関係性>を再認することができるのだ。つまり、「媒体はさまざまな選択の潜在的可能性と捉えることができ、形式の刻印を帯びたものとして選択が行われる」[4]ということである。

 これらの考察を前提とすれば、形式として顕在化した観察対象の背後には、メディアとして潜在化している別の選択肢が眠っているということになる。観察者は、この潜在的な選択対象を観察することができない。その潜在的な選択対象を観察するということは、新たに別の形式とメディアの区別を付与するということである。言い換えれば、形式とメディアにおける差異の境界を再設定することで、メディアに位置付けされていた<ルーズに結び付けられた意味の集積体>を観察しようとする訳だ。しかし、観察者の立場からすれば、その潜在的な選択可能性は不可避の盲点である。仮にその新たな区別で事前に潜在化していた選択対象を観察することに成功したとしても、また別の潜在的な選択対象を発現させてしまう。一つの盲点を埋め合わせようとすれば、別の盲点が発現してしまうのだ。したがって、如何なる観察にも、盲点が伴う。

根拠付けの無限後退をこえて

 形式とメディアを区別する場合、その区別の最終的な根拠は等閑視して構わない。「実行可能性」を標榜するシステム理論は、こうした根拠付けから解放されている。と言うのも、ある形式とメディアの区別に対して根拠を観察するということは、また別の形式とメディアの区別を付与するということだからだ。一方、形式とメディアの区別を放棄することもまた、一つの区別に他ならない。と言うのも、区別しないということは、<区別すること>と<区別しないこと>を区別しているということだからだ。

 しかし、これはパラドクスである。区別の根拠を観察することが新たな区別を付与することを言い表すならば、区別の根拠の根拠を観察することもまた新たな区別を付与することになるからだ。もし最終的な根拠を観察しようとするならば、観察者は無限後退に陥る。「もし観察者が神の視点をもちうるなら、すなわち、どのような世界(空間)にも属していないものとして立ち現れることができるなら、観察者は世界の全体を一望のもとに眺めて、世界をそれ自体としてまるごと同定することができるはずであり、したがって、意味の同定を確保するための『無限の操作』を必要としないだろう。しかしそのような観察者は、この世界の内部に存在しない」[5]。

差異の境界の有りそうも無さ

 この関連から、バートランド・ラッセルの「タイプ理論」が指し示しているように、区別の境界もまたパラドクスと言える[6]。形式とメディアを区別する境界それ自体は、形式でもメディアでもない。だが差異理論的に言えば、次のように言うこともできる。区別の境界は、形式ではない。よってメディアだ。一方、区別の境界は、メディアではない。よって形式だ。したがって、区別の境界は形式でもなければメディアでもないのだが、形式でもありメディアでもあるということになる。

 無論、その境界を改めて観察することは可能である。しかし、その観察が遂行された時点においては、同時的にその境界を観察することはできない。その境界を観察するということは、新たな区別を付与するということだからだ。新たな区別が付与されれば、もはや既成の境界は更新されている。したがって、形式として顕在化した観察対象のみを観察できる観察者には、この境界は不可避の盲点となる。ある観察者は自己の観察に伴うパラドクスを同時的に観察することができない。そのパラドクスは、常に事後的に発見される。つまり観察者は、形式か否かもわからず、メディアか否かもわからない境界を設定することによって、観察を可能としているのである。

<パラドクスの発見>と<パラドクスの隠蔽>の循環的連続

 こうしたパラドクスを背景とするなら、観察とは、およそ有りそうも無い。しかし、システム理論家は、こうしたパラドクスに直面しても尚、区別を付与する。すなわち、<パラドクスの発見>と<パラドクスの隠蔽>の区別だ。何かを観察しているということは、その観察それ自体に伴うパラドクスに直面するということである。だが何かを観察している観察者からすれば、潜在的な選択対象は不可避の盲点である。ある区別を付与している観察者には、別の区別は盲点なのだ。逆に言えば、観察者は、ある区別を盲点として等閑視することによって、別の区別の付与を可能としている。

 したがって、ある区別に帯びているパラドクスを発見した観察者は、新たに別の区別を付与することで、そのパラドクスを隠蔽することが可能になる。しかし、新たに別の区別を付与した観察者は、その新たな区別に伴うパラドクスを発見することになる。それ故、観察者は更に新たな区別を付与することで、そのパラドクスを隠蔽する。つまり観察者は、パラドクスの発見と隠蔽の連続を辿ることで、観察を展開していくのである。

 無論、<パラドクスの隠蔽>と<パラドクスの発見>を区別することにもまた、パラドクスは伴う。しかし、この区別に伴うパラドクスも、新たな<パラドクスの隠蔽>と<パラドクスの発見>の区別を付与することで展開することが可能である。と言うのも、同じ差異を構成するように観える区別でも、実際はその時点次第で異なる差異を構成しているからだ。つまり観察者は、この絶え間無いパラドクス化と脱パラドクス化の循環的な連続を辿ることで、観察を可能としているのである。

始まりの時空で、再び訪れた終焉。

 観察者は、あるパラドクスを隠蔽することで別のパラドクスを発見する。パラドクスの隠蔽とパラドクスの発見は、地と図の関係に他ならない。区別の境界設定を変更していけば、観察者は如何なるパラドクスも隠蔽可能となり、如何なるパラドクスも発見可能となる。観察者は、全ての事柄を盲点として等閑視することが可能だが、全ての事柄を新たな意味として発見することも可能なのである。観察者は、何を実践しても無駄に終わるのだが、何を実践しても良い。「だからパラドクスなのだ。いかなる努力をもってしても、開始し始めたその所で--つまり解き放たれたと思った問題において--再び終りが理解される」[7]。

 以上の考察を背景とするなら、システム理論とは、区別を構成し続ける理論である。どんな区別でも構わない。区別するということは、事前に<付与する区別>と<その他の無数に遍在する諸区別>とを区別しているということだからだ。如何なる区別も、必然ではないが、可能ではある。パラドクス化と脱パラドクス化の循環的な連続を辿ることで、観察者は新たな盲点を見落としていくと同時に、新たな観察対象を発見していくのである。

脚注

[1]  ノルベルト・ボルツ(著)、村上淳一(訳)『意味に餓える社会』東京大学出版会(1998)、p278を参照。

[2]  本レポート(ウェブサイト)では、スペンサー=ブラウンの形式算法ではなく、ルーマンが再記述した現象学的な形式概念を採用している。両者の差異については、ジョージ・スペンサー=ブラウン(著)、大澤真幸(訳)、宮台真司(訳)『形式の法則』朝日出版社(1987)及び、ニクラス・ルーマン(著)、佐藤勉(訳)『社会システム理論(上)』恒星社厚生閣(1993) 、p93を参照。

[3]  ニクラス・ルーマン(著)、村上淳一(訳)『ポストヒューマンの人間論―[後期ルーマン論集]』東京大学出版局(2007)、p66を参照。

[4]  ノルベルト・ボルツ(著)、識名章喜(訳) 、足立典子(訳)『グーテンベルク銀河系の終焉 -新しいコミュニケーションのすがた』法政大学出版局(1999)、p42を参照。

[5]  吉澤夏子(著)『世界の儚さの社会学 シュッツからルーマンへ』勁草書房 (2002)、p158を参照。

[6]  バートランド・ラッセル(著)、高村夏輝(訳)『論理的原子論の哲学』ちくま学芸文庫(2007)を参照。

[7]  ニクラス・ルーマン(著)、土方昭 (訳)、土方透 (訳)『宗教論--現代社会における宗教の可能性』法政大学出版局 (1994)、p73を参照。

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