今や我々は、個別具体的な出来事の「金魚の糞」となることで場当たり的で馬鹿の一つ覚えのように観察するのではなく、根本的な事柄に言及せざるを得なくなっている。我々が直面しているのは、ポスト・ヒューマンと「人類総動物化計画」を巡る巨大なパラドクスだ。これを背景とするならば、我々は、パラドクスに向き合うための準備を整えておかなければならない。
それを可能とするのは、客観性を信仰する科学的宗教ではない。お笑い根拠付け劇場でもない。そもそもこうした概念が適切に機能しているならば、我々はパラドクスに直面せずに済んだはずだ。客観的に考察するには、主観と客観の区別を客観的に定義しなければならない。自己言及的パラドクスだ。根拠付けを成立させるためには、根拠の根拠を問い続けなければならない。無限後退だ。これらの概念は確かにパラドクスに対処しているのだが、同時に新たなパラドクスを派生させているのである。パラドクスの解決すらパラドキシカルだとすれば、もはや既存の有り触れた思考方法では上記の問題に太刀打ちできるほどの効果は得られない。
これに対してシステム理論は、以下のような方法から、パラドクスの脱パラドクス化を可能としている。システム理論家は、矛盾(パラドクス)を次の二つに区別することができる。すなわち、<システムの作動における矛盾>と<システムの観察における矛盾>だ。オートポイエティック・システムは、形式としてのシステムの<形式としてのシステム>への再参入を通じることで、自律的な自己再生産を可能としている。形式としてのシステムは、常に<形式としてのシステム>と<メディアとしての外部環境>との差異を再構成することによって、作動を織り成している。したがって、システムが観察するということは、未だ観察していないシステムが<観察するシステム>を構成した場合において、可能となる。つまり、システムが観察を可能とするためには、まずもって作動していなければならないのだ。
すると、<システムの作動における矛盾>と<システムの観察における矛盾>の区別には、次のような実行可能性が伴う。システムの作動における矛盾は、接続可能性が帯びている作動を選択する形式となる。システムの自己再生産は、矛盾に対する反応という方向性へと水路付けられるのだ。一方、システムの観察における矛盾は、矛盾は決定不可能性を顕在化させている。「観察者は、矛盾した事態を観察するさいに、区別を用いて二つのことがらを識別しても、一方を表示すると他方の表示が排除されることにならず、したがっていずれか一方を表示することができないがゆえに、観察者は、観察を続けていくことができない」[1]。如何なる観察にも盲点が伴うのであった。観察者は、自己の盲点を共時的に認識することができない。だがパラドクスに直面した観察者は、自己の観察が遂行されると同時に、その観察の盲点に直面している。
したがって、矛盾が顕在化した状況では、システムの作動は継続される一方で、システムの観察は停止する。システムの作動が継続した場合、形式としてのシステムは<形式としてのシステム>へと接続されている。しかしながらこのシステム作動の継続は、システムの観察における差異を構成している。と言うのも、形式としてのシステムと<形式としてのシステム>は、もはや同一の観察を遂行している訳ではないからだ。形式としてのシステムと差異化されているメディアとしての外部環境は、無論<形式としてのシステム>と差異化されている<メディアとしての外部環境>とは異なるはずである。そもそも観察対象となり得る外部環境が異なる以上、もはや同一の観察が継続されることはあり得ないのである。このシステム理論的な考察を念頭に置けば、矛盾は既成の観察を停止させると同時に新たな観察を構成するための契機を与えている。
反復的に持続するあらゆる形式は、その内部に<形式>と<メディア>を再参入させている。この形式から<形式>が構成される状況は、形式の<形式>への自己言及である。たとえばシステム理論で言及される形式としてのシステムは、皆<形式としてのシステム>を構成する自己言及的なシステムである。ここで注意されたいのは、<メディア>とは、<形式>ではないということである。<メディア>とは、非<形式>であるとも言えよう。すると我々は、次のような背理を発見することができる。すなわち、形式が非<形式>である<メディア>をも構成しているという背理だ。つまり、「それぞれの意味は、それ自体の否定を可能性として含んでいる」[2]のである。
言い換えれば、形式は、非<形式>としての<メディア>というパラドクスを隠蔽することによって、顕在的に<形式>への再参入を果たしているのである。可能性の段階では、矛盾(パラドクス)は潜在的に隠蔽されたままである。したがって我々は、ルーマンと共に、次のような問題を提起することが可能になる。「すなわち、何がゆえに可能なことがらがこのように広範に分散しているのにそれが矛盾の形式へと濃縮するのか?」[3]つまり、ルーズに関係付けられたままの矛盾(パラドクス)という意味の集積体が、如何にしてリジットに圧縮され得るのかを明らかにしなければならないのだ。
社会的システムにおけるコミュニケーションを場面とした場合、この問題提起に対するルーマンの回答は、「異議を唱えること」であった。つまり、反対の意見を言うことである。「異議を唱えるというコミュニケーション形式が選択されることによって、こうした矛盾の構成は、公然とまた挑発的に進められうることになる」[4]。一方、複数の観察者間におけるパラドクスの顕在化のみならず、コミュニケーションの舞台に立つある観察者が自己自身で顕在化させるパラドクスも起こり得る。嘘吐きのパラドクスやアイロニカルな振る舞いは、このことの好例であろう。
あるシステムにおいて形式としての矛盾(パラドクス)が顕在化した場合、もはやシステムが構成する<形式としてのシステム>と<メディアとしての外部環境>の差異が潜在化してしまう。と言うのも、矛盾の形式化によって、隠蔽されていた<メディアとしての外部環境>の潜在性が顕在化しているためである。形式とメディアにおける顕在性の落差が喪失すれば、もはやシステムと外部環境の差異は希薄化してしまう。これでは、システムのオートポイエーシス的な作動に不確実性が伴ってしまう。
しかし、こうした不確実性は、必ずしも「逆機能」や「機能不全」を誘引している訳ではない。むしろオートポイエティック・システムは、こうした不確実性が構成されるからこそ存続を可能としているのである。仮にシステムと外部環境の差異の再構成が確実化しているとすれば、システムは常に特定の差異の再構成しか遂行しないということになる。常に同一の境界線によってのみシステムと外部環境を区別しているようでは、システムの動態的な作動状態は失われることになる。逆に言えば、不確実性が構成されるからこそ、システムは常に異なる境界線によってシステムと外部環境の差異を再構成することが可能になるのだ。「たとえば、つねに変動する価格という形式で、疑問視されそれどころか変更させられうる法律の形式で、あるいは、いつでも解消されうる婚姻関係という形式で、進められている」[5]。システムの自己再生産は、構造によって限定されているのであった。故に「矛盾は、構造を破壊したり、ある時期には矛盾それ自体が構造に変わる役目を果たしており、矛盾は、そうすることをとおしてシステムのオートポイエーシス的再生産を維持している」[6]。
かくして矛盾は、システムの作動における接続可能性を担う。「矛盾は、整序され、縮減された複合性が見いだされるべきだとするシステムの要求をことごとく一瞬にして破壊してしまう。(中略)しかしながら、そうした破壊がおこなわれると同時に、矛盾は、コミュニケーションにおいて意味の処理過程の接続能力をなおも確かに保証するのに十分な形式を保持している。システムのそうした再生産は、それまでとは違う軌道でもっぱら進められることになる。そのさい、意味の諸形式は一貫性を欠いたものとして現れるのであり、そのことがそのシステムに警告を発している。しかしながら、そうしたシステムのオートポイエーシスは中断されない」[7]。
したがって、矛盾には、システムの接続可能性が危機に瀕しているということを警告する機能がある。社会的システムが作動を停止する可能性は、無論否定できない。暗黙裡に発動された「人類総動物化計画」が成功する可能性もある。ただし社会的システムは、まさにこうした矛盾による警告をコミュニケーションのテーマとすることによって、自己再生産を継続することを可能としている。つまり、形式としての矛盾は、それ自体がコミュニケーション・チャンスとその接続可能性を媒介することによって、システムの存続に寄与を果たしているのである。
「人類総動物化計画」にとって、反「人類総動物化計画」は異論として観察される。逆もまた然りだ。ポスト・ヒューマンとヒューマンとの間でも、これと同様の関係が生じている。我々観察者には、双方のどちらが正しいのかを、決定することができない。どちらも正しいと言え、どちらも誤りだと言える。一方の正統性に没入することもできれば、他方の正統性を無我夢中で否定することもできる。しかし、上述したように、こうしたパラドキシカルな関係は、不毛ではない。パラドクスが発現するからこそ、我々は新たなコミュニケーション・チャンスに巡り合うことができるのだ。
新たなコミュニケーション・チャンスによって形式化されるコミュニケーションは、無論偶発的である。したがって我々観察者は、次に生じるコミュニケーションが如何なる形式なのかについて、全く知り得ない。たとえ「人類総動物化計画」が反「人類総動物化計画」によって棄却されたとしても、またしても「人類総動物化計画」が発動する可能性もあるだろう。あるいは、ポスト・ヒューマンが人間中心主義者の「自称人間」としてのパラドクスに言及したとしても、改めて人間中心主義者が立ち上がる可能性も生じることだろう。パラドキシカルな関係にある双方は、一方が他方を棄却したとしても、直ぐに他方が一方を棄却する姿勢を見せ始める。言うなれば、永久に決着が付かない闘いに、永久にコミットしているのだ。
[2] 同上、p664を参照。
[3] 同上。
[4] 同上、p669を参照。
[5] 同上、p673を参照。
[6] 同上、p675を参照。
[7] 同上、p683を参照。