ポスト・ヒューマンの魔術師

「自称人間」の時代からポスト・ヒューマンの時代へ。

結語:ポスト・ヒューマンの降臨

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結語

 人間の意識は、社会の障害物である。意識は、無意識的に作動する身体の感覚器官における情報のフィルタリングに準拠した上で、事後的に情報の処理や知識の獲得を実行している。無意識の<自分>は、意識の<私>が実行する選択肢を事前に選択しているのだ。したがって、意識は無意識的に方向付けられているということになる。

 つまり、意識は意識するよりも多くの事柄を盲点として等閑視しているのである。知識の獲得と盲点の形成は、「地」と「図」の関係となる。知識社会は、無知社会となるのだ。我々は、知識を獲得すると同時に無知を増幅させている。充分に知識を獲得したと自認する観察者は、もはや自分が無知であることに無知なのだ。

 無知を増大させる現代社会では、知識や技術を無知でも無理解でも利用可能として仕立て上げる「デザイン」が重宝される。「デザイン」とは言わば、構造的な複雑性を機能的に単純化させる魔術なのだ。トランス・ヒューマニズムの技術が我々の身体に関する無知を拡大するならば、そうした無知を癒すための「デザイン」が必要になる。「デザイン」が成功すれば、我々が無知でも無理解でも技術や学知を利用できているということを、もはやさして気に留める必要が無くなるのだ。

 <ミーム複合体としての「デザイン」>に準拠する限り、「怒り」、「恐怖」、「空腹」、そして「性欲」を方向付ける「デザイン」は、進化上生き残る可能性が高い。「環境管理型権力」は、まさにこの特徴を活かしている。「環境管理型社会」では、無意識の<自分>は身体を操作する技術により日常的に方向付けられている。「環境管理型権力」は、意識の<私>に葛藤を与えないまま無意識の<自分>を操作している。それ故、意識の<私>は、無意識の<自分>が技術によってコントロールされているということに、中々気付かない。それどころか、無知を癒す「デザイン」を享受することで、意識の<私>は無知でも無理解でも気に留めずに日常生活を営んでいる。もはや着目されるのは無意識的に作動する身体の感覚器官である。意識は相手にされていない。しかし、「デザイン」のお陰で意識の<私>は、そのことに不快感を持たずに過ごすことができるようになったのである。

 こうしたトランス・ヒューマニズムの発達から「環境管理型権力」の形成に対して、人間中心主義的にヒューマニズムを語る者たちはアレルギー反応を示している。彼らによると、人間性の本質が危ういらしい。しかし、「人間」を主張するということは、その本質的な規定に従わない他の人間を非人間として排除するということである。したがって、ヒューマニストの言い分は作為的に逆手に取ることができる。すなわち、同じ人間を非人間として排除することもまた、非人間的であるのだ。

 この社会に「人間」は居ない。居るのは、「私は人間だ」と主張する「自称人間」だけだ。「自称人間」の実質は、トランス・ヒューマニズムによって発達していく技術と「環境管理型権力」によって方向付けられる身体を無理解のまま利用する「動物」に他ならない。「動物」は、一方で<自分>の「欲求」に忠実に従事するのだが、他方で「人間」としての<私>が抱く「欲望」にも従事する。しかし、「動物」が「人間」になることはできない。「動物」は、あくまで「自称人間」としての出来レースで我慢しなければならない。

 こうした流れに対して、道徳や倫理、あるいはヒューマニストたちが太刀打ちする術は無い。道徳や倫理にできることは、学習しない姿勢を正当化することだけだ。ヒューマニストにできることは、「自称人間」で満足することだけである。トランス・ヒューマニズムやその延長線上に位置するポスト・ヒューマニティに盲点が伴うのであれば、それに抗うリスク・コミュニケーションにもまた盲点が伴う。ポスト・ヒューマンに比して、アンチ・ポスト・ヒューマンがより冷静な分析が可能であるという保証は、何処にも無い。不可避的に盲点を等閑視するということに関して言えば、両者は同じ穴の狢なのだ

 かくして、「人間」の時代は終わった。現代は、既に<人間後>の時代である。すなわち、ポスト・ヒューマンの時代なのだ。ポスト・ヒューマニティにおいては、「人間」は「動物」と共に技術の素材となる。ポスト・ヒューマンは、ポスト・ヒューマンを自己言及的かつ「自己家畜」的に「デザイン」するのである。背景にあるのは無知社会であるのだから、確実性を保つ真理の追及は頓挫に終わる。それ故、ポスト・ヒューマニティは善く言えば臨機応変に発達していき、悪く言えば便宜主義的に発達していく

 とはいえ、「デザイン」を利用すれば、意識的に考察する必要は無い。無知でも無理解でも構わない。道徳や倫理のように<馬鹿の一つ覚え>に陥らない限り、<馬鹿>であることは間違いではないのである。それ故ポスト・ヒューマンの時代とは、様々な<馬鹿>を作為的に利用していく「動物」たちの時代であると言えるだろう

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