今後の「環境管理型社会」では、無意識的に作動する身体の感覚器官に位置する<自分>は、トランス・ヒューマニズム的な科学技術によって、情報処理の方向性を魔術的に操作されることになる。そして、技術的に方向付けられた<自分>は、閾上を戯れる<私>の情報や知識の獲得を方向付けることになる。したがって、意識を持つ<私>たちには、「環境管理型権力」によって自覚の有無を問わずコントロールされることになる。
<私>たちにとって、<自分>の動向は予測不能である。<自分>たちにとって、トランス・ヒューマニズム的な技術の動向は予測不能である。したがって<私>たちにとって、<自分>が予測できない技術の動向も予測不能となる。<私>には、<私>の振る舞いが「人間」的な「欲望」に準拠しているのか、「動物」的な「欲求」に準拠しているのかが、区別できない。つまり<私>は、自己自身の身体とそれを操作する技術に関して、無知を拡大していくことになる。
したがって、<私>は現代社会のみならず自己自身についても予測不能となる。逆説的にも、予測不能であるということだけが、予測され続ける訳だ。こうしたパラドクスを展開するのが、貨幣である。貨幣は、経済システム(1) の作動においてシンボルによる一般化を果たしたコミュニケーション・メディアとして発現している。この貨幣は、予測不可能な未来への備えとして役立つ(2) 。そのため、こうした貨幣による未来の補助は、重要な位置付けとして予測される。無論、貨幣を所有すれば全ての問題を解決できる訳ではない。しかし、メディアとしての貨幣は、全体社会における予測不可能性を<リスク>として選択的に吸収することを可能とする(3) 。単純化して言えば、経済システムに包摂された「金銭をもつ者は、何が起こるかを知らないが、起こることを待つことができる」(4) 。言い換えれば、貨幣の所有者は、リスキーな選択に足を踏み出す決定者へと包摂されるのである。
こうしたフォーディズム体制の延長線上に、ポスト・フォーディズム体制が位置付けされる。時系列的には後期近代だ。この時点では既に、政治システムではネオリベとネオコンが浮上し、経済システムではグローバル化とトーマス・フリードマン流の「フラット化」(6)が推奨されるようになっている。テイラー的な労働形式を含意したフォーディズム的な労働では、エリートには実りがあったとしても、大多数の大衆には実りが無い。そもそも「動物」でも勤まる労働である以上、「人間」味の溢れる労働、「人間」として希望を持てる労働ではなかった訳だ。
ポスト・フォーディズム体制では、こうした大衆が直面した「欲望」達成の不確実性を吸収するために、消費市場が「デザイン」されるようになる。エリート的な価値観で夢を描けない大衆たちは、コンビニやマクドナルド、ブランド、ハイテク、メディア、サービスなど、様々な「ハイパーリアリティ」をシミュラークル的に消費し続けることによって、「欲望」の追求という終わりのない堂々巡りに終止符を打つことが可能になる訳だ。つまり、エリート的な「欲望を消費的な「欲望」で代価可能となったことに連関して、消費市場のプラットフォームが、宗教の地位代価機能の等価物となったのである(※)。
こうした商品を購入する消費者たちは、商品を理解している訳ではない。消費者たちは、商品に関する無知を貨幣の支払いによって埋め合わせているのである。「たとえばマクドナルドは、人びとが食べ物を購入するとき、楽しみを得ているという幻想、たくさんのフレンチフライを食べているという幻想、そして安いものを手に入れているという幻想を彼らに与えている」(7)。仮にマクドナルドのトレーサビリティを無限に遡及するならば、我々は「空腹」を満たす前に餓死してしまう。貨幣は、そうした負担を免除してくれるのだ。貨幣を支払うということは、購入した商品を無知でも無理解でも利用するということである。支払いは、それ自体が魔術的な「デザイン」なのだ。
フレキシヴィリティとアウトソーシングというキーワードは、ポスト・フォーディズム体制を説明する上での常道文句となっている。ジョージ・リッツァはこの関連から、ポスト・フォーディズムの内実に「マクドナルド化」が蠢いていることを見抜いた。無論彼は「マクドナルド化」を肯定している訳ではない。ジョージ・リッツァが「マクドナルド化を非合理的、そして究極的には非理性的であると考える主要な理由は、それが反人間的、もしくは人間にとって破壊的でありさえする脱人間化システムになる傾向があるからである」(8)。しかし、繰り返し述べてきたように、人間を中心に据える思考回路は既に乾涸びている。
「マクドナルド化」に懸念があるとすれば、それは「マクドナルド化」に伴う合理性が逆説的にも非合理性を生み出すということである。しかし、「マクドナルド化」に伴った非合理性を対処するためには、合理化をより推進しなければならない。しかし、そもそも「マクドナルド化」は合理性の追求を出発点としたのであった。「マクドナルド化」という合理化が逆説的にも非合理性を生み出したとすれば、脱「マクドナルド化」にもまた同じような逆説が伴う可能性がある。たとえば、脱「マクドナルド化」を可能とするためには、「マクドナルド化」によって機能し始めた諸々の社会的システムに依拠せざるを得ない。終わりなき脱「マクドナルド化」の追及という<マクドナルド的な>非合理性が伴い始める訳だ。これについては、ジョージ・リッツァも既に考察済みである。すなわち、「今日のポスト・フォーディズムのシステムがフォーディズムの影響を強く受けているように、明日のポスト・マクドナルド化システムは、マクドナルド化によって強く影響されつづけるに違いないのである」(9)。
我々が「マクドナルド化」という巨大なノイラートの船に乗船していることは、既に多くの学者たちが指摘してきたことであろう。今更言うまでもない。終わりなき脱「マクドナルド化」の追求という<マクドナルド的な>非合理性が伴い始めたならば、今度は終わりなき合理化の追求という魔術的な束縛に駆られ始めることになる。合理化の追求も、魔術化の追求も、パラドクスなのだ。「いかなる努力をもってしても、開始し始めたその所で--つまり解き放たれたと思った問題において--再び終りが理解される」(10)。したがって、そこに魔術的な「デザイン」が付け入る隙が生まれる。「資本主義教の祭儀はいつまでも持続する。毎日が、商品という物神を崇拝する祭日であり、導師たちは絶え間なく全力で祭儀を執行する。資本主義教の祭儀は、むろん商品の祭儀なのだ」(11)。