ポスト・ヒューマンの魔術師

「自称人間」の時代からポスト・ヒューマンの時代へ。

「動物」たちの魔術的な消費市場

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要約

 貨幣は、「動物」たちの「自己家畜化」を促進させる。

予測不可能性を待つ

 繰り返すように、現代社会は高度情報社会でも知識社会でもない。無知社会である。現代社会では、人間の意識は邪魔だ。それ故、現代社会では閾上を戯れる意識よりも閾下の無意識が注目される。「剥き出しの生」として顕在化した<意味の新大陸>において、「動物」的な「欲求」に着目する「環境管理型権力」が導入されたのは、そのためである。

 今後の「環境管理型社会」では、無意識的に作動する身体の感覚器官に位置する<自分>は、トランス・ヒューマニズム的な科学技術によって、情報処理の方向性を魔術的に操作されることになる。そして、技術的に方向付けられた<自分>は、閾上を戯れる<私>の情報や知識の獲得を方向付けることになる。したがって、意識を持つ<私>たちには、「環境管理型権力」によって自覚の有無を問わずコントロールされることになる。

 <私>たちにとって、<自分>の動向は予測不能である。<自分>たちにとって、トランス・ヒューマニズム的な技術の動向は予測不能である。したがって<私>たちにとって、<自分>が予測できない技術の動向も予測不能となる。<私>には、<私>の振る舞いが「人間」的な「欲望」に準拠しているのか、「動物」的な「欲求」に準拠しているのかが、区別できない。つまり<私>は、自己自身の身体とそれを操作する技術に関して、無知を拡大していくことになる。

 したがって、<私>は現代社会のみならず自己自身についても予測不能となる。逆説的にも、予測不能であるということだけが、予測され続ける訳だ。こうしたパラドクスを展開するのが、貨幣である。貨幣は、経済システム(1) の作動においてシンボルによる一般化を果たしたコミュニケーション・メディアとして発現している。この貨幣は、予測不可能な未来への備えとして役立つ(2) 。そのため、こうした貨幣による未来の補助は、重要な位置付けとして予測される。無論、貨幣を所有すれば全ての問題を解決できる訳ではない。しかし、メディアとしての貨幣は、全体社会における予測不可能性を<リスク>として選択的に吸収することを可能とする(3) 。単純化して言えば、経済システムに包摂された「金銭をもつ者は、何が起こるかを知らないが、起こることを待つことができる」(4) 。言い換えれば、貨幣の所有者は、リスキーな選択に足を踏み出す決定者へと包摂されるのである。

ポスト・フォーディズム体制に動員される「動物」たち

 ここで、労働の組織システムを概観しておこう。近代前期に顕在化したフォーディズムの特徴を、コーポラティズム的な政治システムやケインズ主義的な経済システムと結び付けて語るのは容易い。しかし我々の考察との関連では、むしろフレデリック・テイラーによる科学的な管理に基づいた労働形式(5)を強調しておくべきだろう。テイラーの業績は、作業の精密な動作と時間を科学的に解明することで、熟練労働者の暗黙知を万人に利用可能としたことにある。その際付与した区別が、<頭脳が必要な労働>と<身体で事足りる労働>である。事実、テイラーは、最低限の知能と身体を持つ「動物」と変わらない「人間」を雇用可能としようとしたのであった。フォーディズム体制は、このテイラーの意志を密かに継承していたと言える。

 こうしたフォーディズム体制の延長線上に、ポスト・フォーディズム体制が位置付けされる。時系列的には後期近代だ。この時点では既に、政治システムではネオリベとネオコンが浮上し、経済システムではグローバル化とトーマス・フリードマン流の「フラット化」(6)が推奨されるようになっている。テイラー的な労働形式を含意したフォーディズム的な労働では、エリートには実りがあったとしても、大多数の大衆には実りが無い。そもそも「動物」でも勤まる労働である以上、「人間」味の溢れる労働、「人間」として希望を持てる労働ではなかった訳だ。

 ポスト・フォーディズム体制では、こうした大衆が直面した「欲望」達成の不確実性を吸収するために、消費市場が「デザイン」されるようになる。エリート的な価値観で夢を描けない大衆たちは、コンビニやマクドナルド、ブランド、ハイテク、メディア、サービスなど、様々な「ハイパーリアリティ」をシミュラークル的に消費し続けることによって、「欲望」の追求という終わりのない堂々巡りに終止符を打つことが可能になる訳だ。つまり、エリート的な「欲望を消費的な「欲望」で代価可能となったことに連関して、消費市場のプラットフォームが、宗教の地位代価機能の等価物となったのである(※)。

「怒り」・「恐怖」・「空腹」・「性欲」が消費を活性化させる

 更に言えば、「動物」的な「欲求」は「人間」的な「欲望」の<埋め合わせ>として位置付けることができる。ミーム複合体としての「デザイン」>を参照する限り、「デザイン」が施された商品は、消費対象として選択される可能性が高い。「怒り」、「恐怖」、「空腹」、そして「性欲」を魔術的に方向付ける商品は、市場競争の淘汰で生き残る可能性が高いのだ。単純に考えてみても、9.11以降のセキュリティ・グッズの量産は「怒り」や「恐怖」の帰結として捉えることができる。ジョージ・リッツァの議論は、「空腹」を満たすマクドナルドから生まれた。「性欲」に関して言えば、活発に暗躍する性産業を観れば良い。

 こうした商品を購入する消費者たちは、商品を理解している訳ではない。消費者たちは、商品に関する無知を貨幣の支払いによって埋め合わせているのである。「たとえばマクドナルドは、人びとが食べ物を購入するとき、楽しみを得ているという幻想、たくさんのフレンチフライを食べているという幻想、そして安いものを手に入れているという幻想を彼らに与えている」(7)。仮にマクドナルドのトレーサビリティを無限に遡及するならば、我々は「空腹」を満たす前に餓死してしまう。貨幣は、そうした負担を免除してくれるのだ。貨幣を支払うということは、購入した商品を無知でも無理解でも利用するということである。支払いは、それ自体が魔術的な「デザイン」なのだ。

 フレキシヴィリティとアウトソーシングというキーワードは、ポスト・フォーディズム体制を説明する上での常道文句となっている。ジョージ・リッツァはこの関連から、ポスト・フォーディズムの内実に「マクドナルド化」が蠢いていることを見抜いた。無論彼は「マクドナルド化」を肯定している訳ではない。ジョージ・リッツァが「マクドナルド化を非合理的、そして究極的には非理性的であると考える主要な理由は、それが反人間的、もしくは人間にとって破壊的でありさえする脱人間化システムになる傾向があるからである」(8)しかし、繰り返し述べてきたように、人間を中心に据える思考回路は既に乾涸びている

 「マクドナルド化」に懸念があるとすれば、それは「マクドナルド化」に伴う合理性が逆説的にも非合理性を生み出すということである。しかし、「マクドナルド化」に伴った非合理性を対処するためには、合理化をより推進しなければならない。しかし、そもそも「マクドナルド化」は合理性の追求を出発点としたのであった。「マクドナルド化」という合理化が逆説的にも非合理性を生み出したとすれば、脱「マクドナルド化」にもまた同じような逆説が伴う可能性がある。たとえば、脱「マクドナルド化」を可能とするためには、「マクドナルド化」によって機能し始めた諸々の社会的システムに依拠せざるを得ない。終わりなき脱「マクドナルド化」の追及という<マクドナルド的な>非合理性が伴い始める訳だ。これについては、ジョージ・リッツァも既に考察済みである。すなわち、「今日のポスト・フォーディズムのシステムがフォーディズムの影響を強く受けているように、明日のポスト・マクドナルド化システムは、マクドナルド化によって強く影響されつづけるに違いないのである」(9)

 我々が「マクドナルド化」という巨大なノイラートの船に乗船していることは、既に多くの学者たちが指摘してきたことであろう。今更言うまでもない。終わりなき脱「マクドナルド化」の追求という<マクドナルド的な>非合理性が伴い始めたならば、今度は終わりなき合理化の追求という魔術的な束縛に駆られ始めることになる。合理化の追求も、魔術化の追求も、パラドクスなのだ。「いかなる努力をもってしても、開始し始めたその所で--つまり解き放たれたと思った問題において--再び終りが理解される(10)。したがって、そこに魔術的な「デザイン」が付け入る隙が生まれる。「資本主義教の祭儀はいつまでも持続する。毎日が、商品という物神を崇拝する祭日であり、導師たちは絶え間なく全力で祭儀を執行する。資本主義教の祭儀は、むろん商品の祭儀なのだ」(11)

結論

 トランス・ヒューマニズムからその先にあるポスト・ヒューマニティを観察する限り、格差や平等化の議論は、等閑視しても構わない(12)。貨幣の所有者だけがポスト・ヒューマニティのプラットフォームに包摂される訳ではない。作為的に逆手に取るならば、アンチ・ポスト・ヒューマニティを連呼する者たちも、「動物」的な「欲求」において方向付けられることには変わりは無い。無論、貨幣を支払うことができる「自称人間」は、「環境管理型権力」に方向付けられると同時に、積極的に「自己家畜化」を施していくことだろう。貨幣を持たない者は、「自己家畜化」の自由が一部制約されるだけであって、「動物」的なコントロール下にあると言う点では、平等に取り扱われるのだ。貨幣を支払うことができる者も、支払うことができない者も、「動物」的な「欲求」に方向付けられている「自称人間」であることには変わりは無いのである。ポスト・ヒューマニティが格差を助長すると考えている論客は、これでホッとしたのではないだろうか

注釈

  1.  詳細は、ニクラス・ルーマン(著)、春日淳一(訳)『社会の経済』文眞堂 (1991)、pp84-127、pp234-278を参照。

  2. ニクラス・ルーマン(著)、春日淳一(訳)『社会の経済』文眞堂 (1991)、pp234-278を参照。

  3. メディアとしての貨幣の潜在性を後ろ盾とすることで顕在化する形式には、次のような<リスク>が伴っている。すなわち、貨幣を支払えば選好が可能になると同時に、決定を誤る可能性が高まるのだ。選好可能性の幅が広いが故に、より正しい決定が相対的に難しくなるのである。
    そもそも貨幣の受信において既に<リスク>は<構成>されている。何故なら、貨幣の受信は、貨幣の送信により欲求が充足されるという「認識」に支持されているからだ。この「認識」は、やはり偶発性に晒されることで容易に揺らいでしまう。我々は、それ自体では価値の無い媒介としての象徴で満足するしかない。そして、この媒介としてのシンボルは、人々を差異へと導くことになる。と言うのも、形式としての同一性は、その内部に<形式としての同一性>と<メディアとしての差異>を発現しているからだ。我々が如何に労働に勤しんだとしても、それに値するほどの貨幣の受信が保証されるかは不確実である。貨幣の送信たる支払いにより欲求が充足されるかも不確実である。送信せず貯蓄する道を選択したとしても、投資の必要性がなくなることは無い。この投資の段階でも<リスク>は伴う。現在における最良の投資と、未来における現在で行なわれる最良の投資は、別様なのだ。
    このことに関する詳細については、ニクラス・ルーマン(著)、春日淳一(訳)『社会の経済』文眞堂 (1991)、pp234-278を参照。

  4.  ノルベルト・ボルツ(著)、村上淳一(訳)『世界コミュニケーション』東京大学出版会(2002)、p132を参照。

  5.  フレデリック・テイラー(著)、上野陽一(訳)『科学的管理法』産能大学出版部(新版版)、(1969)を参照。

  6.  トーマス・フリードマン(著)、伏見威蕃 (訳)『フラット化する世界〈上〉』日本経済新聞社 (2006)を参照。

  7.  ジョージ・リッツァ (著)、正岡寛司 (訳)『マクドナルド化する社会』早稲田大学出版部 (1999)、p207を参照。

  8.  同上、p208を参照。

  9.  ジョージ・リッツァ(著)、正岡寛司(訳)『マクドナルド化の世界―そのテーマは何か? 』早稲田大学出版部 (2001)、p316を参照。

  10.  ニクラス・ルーマン(著)、土方昭 (訳)、土方透 (訳)『宗教論--現代社会における宗教の可能性』法政大学出版局 (1994)、p73を参照。

  11.  ノルベルト・ボルツ(著)、村上淳一(訳)『意味に餓える社会』東京大学出版会(1998)、p170を参照。

  12.  トランス・ヒューマニストたちは、技術の発達が経済的格差を生み出す可能性に対して、楽観論を提唱している。本レポートで考察してきた魔術的な「デザイン」の理論と「自称人間」の陥穽に加えて、ラメズ・ナム (著)、西尾香苗 (訳) 『超人類へ! バイオとサイボーグ技術がひらく衝撃の近未来社会』河出書房新社 (2006)、pp74-79を参照されたい。

更新履歴

(※)2008/07/16 08:20 追記。

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