ポスト・ヒューマンの魔術師

「自称人間」の時代からポスト・ヒューマンの時代へ。

予備考察2:思考をサボるための道徳と倫理

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要約

 道徳と倫理は、学習しない姿勢を正当化させるために役立つ。したがって道徳と倫理は、法システムのオルタナティヴとはなり得ない。むしろ、道徳と倫理は法システムの邪魔となるだろう。

無知に留まる道徳

 出鼻を挫くようで申し訳ないのだが、私はノルベルト・ボルツに倣い、道徳を<学習しない姿勢を正当化するための「デザイン」>として捉えていこう。すなわち、「道徳的な話題が好まれるのは、そうすれば考えなくてすむからである。道徳を持ち出す者は、学習し直すつもりがないのだ。無知にとどまろうとするこの態度は、別の見方をする者を肯定的だとか冷笑的だとか言って片づけることによって、自分は良心的なつもりになる(1)

 道徳を語る際、道徳とを混同してはならない。たとえば、美容整形が合法の範疇にあるとしても、いざ整形に取り組むことを道徳的に拒絶することは矛盾ではない。美容整形の合法化を主張する者が、美容整形を道徳的に拒絶したところで矛盾は無い。逆に言えば、道徳的に拒絶するべき観念が非合法化へと直結する訳ではない。

 既に述べたように、法システムは合法と不法とを区別する。これに対して道徳は、善と悪を区別する(2) 。しかしシステム理論的に言えば、区別は区別それ自体を区別できない(3) 。何故なら、差異化された二つの対象に同時的に言及することは不可能だからだ。したがって、道徳的に振舞う観察者は、自己自身が依拠する道徳それ自体の善悪を区別することができない。それ故、道徳的に善とされる形式の内部に悪が構成されることもあれば、道徳的に悪とされる形式の内部に善が構成されることもある。つまり道徳は、必然的にパラドクスに陥るのだ。

 善い道徳が<悪い道徳>を構成することもあれば、悪い道徳が<善い道徳>を構成することもある。問題は、道徳的に振舞う本人が、自身の道徳の善悪を区別できないということである。悪に染まりつつある既成の道徳に対して、新たな道徳を付与したとしても、無論辿り着く帰結は同じである。肝心の新たな道徳の善悪が区別できないからだ。

 こうしたパラドクスにも拘らず、尚道徳的な振る舞いを続行する者には、学習する姿勢が見当たらない。道徳と法を混同する道徳家ならば、「悪に裁きを!」と憤慨するところだろう。しかし、それは悪に憤慨しただけであって、実際上の法システムを作動させたことにはならない。道徳的に善悪を区別したところで、合法と不法を区別したことにはならないからだ。

学習しない姿勢を「デザイン」する倫理

 とはいえ、道徳家が倫理を引き合いに出すのであれば、まだ救い様はあるかもしれない。と言うのも、倫理は道徳的な振る舞いを形式化させるからだ。「道徳に対して道徳的判断を下すことができるのは倫理だけである。(中略)倫理の機能とは、道徳コードの統一、つまり善いと悪いの差異の統一を反省することなのである」(4)

 倫理の形式を導入することで、道徳のパラドクスは展開される。しかし、それはパラドクスの解消を言い表す訳ではない。何故なら、パラドクスの展開それ自体がパラドクスだからだ。したがって、道徳的パラドクスの隠蔽と倫理的パラドクスの発見は「地」と「図」の関係である。次のパラドクスは、倫理による区別に発現するだろう。すなわち、悪い道徳を指し示す倫理の内部に<悪い道徳を善い道徳として観察する倫理>が構成される場合もあれば、善い道徳を指し示す倫理の内部に<善い道徳を悪い道徳として観察する倫理>が構成される場合もあるということだ。

 この倫理のパラドクスを展開するためには、別の区別を導入することが必要になる。たとえば、損得の形式は、倫理のパラドクスに悩まされている観察者にとって、魅力的な発見となるだろう。もはや道徳のみでは法は語れない。既成の形式に依拠し続けるだけで学習しない姿勢を貫くのみでは、パラドクスに直面する。しかし、それでも尚倫理に依拠しようとする倫理主義者がいるとすれば、それは倫理以外の諸々の選択肢を過小評価しているということだ。つまり倫理主義者たちもまた、道徳家同様に、学習しない姿勢を正当化することに忙しいのである。

学習しない姿勢の限界

 ところで、道徳家や倫理主義者が好き好む「学習しない姿勢」には、限界がある。一言で言えば、それは<悪を構成する道徳>が発現する危険性や<悪い道徳を構成する倫理>が発現する危険性である。つまり、道徳にも倫理にも、リスクが伴うのだ。確かに、トランス・ヒューマニズムの技術的なリスクに対して、道徳や倫理(無論、バイオエシックスを含めて)に基づいたリスク・コミュニケーションが注目を集めていた。しかし、リスク・コミュニケーションにもまたリスクが生じるのだとすれば、残念な話だ。トランス・ヒューマニストとそれを敵視する道徳家・倫理主義者たちは、同じ穴の狢なのである。

結論

 以上の考察は、既に繰り返してきたヒューマニズムの陥穽に直結している。人間中心主義を標榜するヒューマニストは、「自称人間」に過ぎないのであった。この関連から、道徳を主張する者は、「自称道徳家」に過ぎない。倫理主義者は、「自称倫理主義者」となる。道徳や倫理を引き合いに出すためには、「自分は悪ではない」という過剰な自己信頼が必要になる。彼らが非人間的な人間を把握するほどの能力を持ち合わせているのかについては、疑問が残る。そもそも自滅してしまうヒューマニスト・道徳家・倫理主義者が、トランス・ヒューマニストやポスト・ヒューマニティに比して冷静な選択が可能であるということに、必然性は無い。

注釈

  1.  ノルベルト・ボルツ(著)、村上淳一(訳)『意味に餓える社会』東京大学出版会(1998)、p199を参照。
  2.  ニクラス・ルーマン(著)、庄司信(訳)『エコロジーのコミュニケーション』新泉社(2007)、p259を参照。
  3.  観察者は、自己の観察それ自体を同時的に観察することは不可能である。仮に自己の観察それ自体に言及するならば、<自己の観察それ自体>と<自己の観察それ以外>という差異を新たに構成する必要がある。この差異の再構成には、時間が必要である。形式は、同時的に二つの差異を構成することはできない。同時的に二つの差異を構成した場合、それは<同時的に構成された二つの差異それ自体>と<当該差異それ以外>という差異を<一つだけ>構成しているに過ぎない。総じて、観察者が自己の観察に伴う盲点を同時的に観察することは不可能なのである。このことについては、長岡克行 (著) 『ルーマン/社会の理論の革命』勁草書房 (2006)、pp184-198、ニクラス・ルーマン(著)、村上淳一(訳)『ポストヒューマンの人間論―[後期ルーマン論集]』東京大学出版局(2007)、pp117-135、ニクラス・ルーマン(著)馬場靖雄(訳)『社会の芸術』法政大学出版局(2004)、pp85-107を参照。
  4.  ニクラス・ルーマン(著)、庄司信(訳)『エコロジーのコミュニケーション』新泉社(2007)、p259を参照。

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