ポスト・ヒューマンの魔術師

「自称人間」の時代からポスト・ヒューマンの時代へ。

予備考察1:法と「人間」のお別れ会

前のページへ目次へ次のページへ

要約

 「自称人間」は、道徳的に悪とされるもの、倫理的に非道とされるもの、あるいは非人間的な振る舞いに法的な制裁を放とうとする。しかし、それは法的な制裁ではなく、「動物」的な「欲求」に裏付けされた魔術的な「デザイン」に他ならない。

無知でも無理解でも利用可能な「法律」と「憲法」

 法律と憲法は、無知でも無理解でも利用できる。誰もが自ら条文を学ぶのではなく、専門家に意見を求める。法律相談所に行列ができているのは、そのためだ。今では法律を全く知らない者たちでも、「訴えてやる」と言えば、法的な攻撃が可能になるのである。

 政治的コミュニケーションの担い手たちもまた、法律と憲法を無理解のまま利用する。中でも基本的人権は、治安や法の構造的な複雑性を機能的に単純化させるための魔術となった。「人権」を引き合いに出せば、複雑高度なシステムの問題を単純な「人間」の問題へと摩り替えることができる。レヴィ=ストロース以降の構造主義者やフーコーをはじめとするポスト構造主義者たちは、このことを供犠による再魔術化として批判しただろう。

 犯罪やテロの構造的な複雑性に到底理解できない惨めな気持ちを抱いた観察者たちは、「人権」という魔術的な「デザイン」を利用することで、事態を単純化しようとする。今では、刑事訴追でさえ「被害者の人権」が通用すると思い込む輩が蔓延ってきた。法律は、国家から国民への命令だ。憲法は、国民から国家への命令である。人権は、憲法上規定された概念だ。そして刑事訴追とは、被害者と加害者の紛争ではなく、国家から加害者への拘束を意味する。その拘束が不当に処理され得ないためにも、加害者側から人権を要求する必要がある。したがって言及されるのは、加害者の人権だ。被害者ではない。

 しかし、こうした自明の前提に無知でも無理解でも、死刑制度や重罰化を唱えることはできる。たとえば無知な死刑賛成派は、「被害者の人権」を根拠付けとすることで、死刑を要請するだろう。逆に無知な死刑反対派は、この無知な死刑賛成派に対して自明の前提であるはずの「加害者の人権」を主張するだろう。本当に死刑に賛成するならば、わざわざ「被害者の人権」を要請することで自身の法的無知を曝け出すはずは無い。本当に死刑に反対するならば、自明の前提を連呼するだけではなく、死刑に対するオルタナティブを提出するはずだ。今日、法律や憲法を語り合うことと、法律と憲法を理解することとは、乖離しているのである。

 しかし、こうした法的無知を批判することはできない。法律と憲法が無知でも無理解でも利用可能だということは、法システムに対する信頼が保持されているということである。アルノルト・ゲーレンが提唱した「器官の負担免除」(1)を念頭に置けば、我々は、法的制度に飼い馴らされることを以って、法的な機能に依存する。しかし一方で、信頼は得てして虚構である。その信頼が裏切られる可能性もあろう。だが法システムは、法システムへの信頼が裏切られても尚信頼が可能であるような制度を配備している。それ故、我々は法システムをただ信頼するだけで無知のまま過ごすことができるのである。

信頼の負担

 上記の見解について、詳述していこう。法システムは、合法と不法を区別する。それ故、法システムにより合法として言及された権力は、公式性を帯びる(2) 。公式的権力をメディア化させることで形式化された意思決定の集約ならば、より多くの被影響者を決定者と同一の方向性へ誘導させることができる。

 こうした法システムは、信頼することへの期待を可能としている。我々が他者に信頼されるためには、まず自己を信頼しなければならない。観察者は、別の観察者が抱く自己信頼を信頼する。自己を信頼しない観察者を信頼することはできない。と言うのも、自己自身の信頼性を否定する観察者を信頼しようとすれば、我々は多くの哲学者を悩ませてきた「嘘吐きのパラドクス」に直面するからだ。ある観察者を信頼するには、その観察者が自己言及的に構成した自己信頼をまず信頼する必要がある。

 しかし、信頼は裏切られることがある。構成主義的に言えば、認識と実在が一致することはあり得ない。Aが自己言及的に構成した自己信頼とBのAに対する信頼とが一致することも、あり得ない。BはAの信頼性を的確に観察することは不可能なのだ。したがって、信頼には裏切りという盲点が伴う。逆に言えば、信頼関係を構成するためには、こうした盲点を共有することが必要になるのだ。

 ここで、法システムが一役買うことになる。合法と不法とを区別する法システムは、信頼に公式性を帯びさせることができる。まず法システムは、Aの自己信頼を信頼することで、Aの自己信頼に公式性を帯びさせる。ここで注意されたいのは、外部への言及は外部に言及している自己への言及に他ならないということだ(3)。したがって、法システムはAを信頼する自己を信頼しているということになる。ここにおいて、BはAに対する信頼が公式的であることを観察する。よってBは、まず法システムの自己信頼を信頼することで、Aを信頼する法システムを信頼することになる。

 無論、法システムの観察にも盲点は伴う。この場合、法システムがAの自己信頼を的確に観察できるとは限らない。それ故、法システムはAに裏切られる可能性がある。そして結果的にBは、法システムが裏切られたことで再帰的に裏切られることになる。しかし、法システムはこの信頼崩壊をただ指を銜えて待っている訳ではない。法システムは、信頼の成功率を高める代わりに、信頼への期待が維持されるべく制度を設計している。アルノルト・ゲーレンが「安定化する強制力」(4)と呼んだように、これは個々人にとって複雑極まりない意思決定を「負担免除」させるための機能に他ならない。

 詳しく観てみよう。信頼に伴う負担を免除するために、法システムは政治システムを信頼する自己を信頼する。そして法システムは、法に対する信頼が、権力を後ろ盾とした公式的な信頼であるということに関して自己信頼する。権力が後ろ盾となっているということは、我々は、政治的に集約された意思決定に方向付けられた上で法を信頼するということになる。言い換えれば、決定者と被影響者とが同一の盲点を共有することで、信頼関係を可能としているのである。権力に裏付けられた法システムは、裏切りに対して制裁を付与することができる。この制裁が制度化されることで、我々は信頼が裏切られた場合でも尚信頼への期待を維持できるようになるのだ。たとえば、警察組織はその典型である。犯罪に巻き込まれることで他者から裏切られた被害者でも、警察に通報することで、信頼への期待を維持させることが可能となる。

 しかし、法システムが権力に裏付けられるということは、政治同様に、法の目的外使用を懸念しなければならない。たとえば、警察組織が権力と強制を混同してしまえば、我々はもはや権力に裏付けられた法システムの自己信頼を信頼することが不可能になる。とはいえ、政治システムの自己信頼を信頼することにも、盲点は伴う。先述したように、政治システムが取り組むのは、「如何にして被影響者を決定者と同一の方向性へ誘導させるのか」という魔術だからだ。無論政治システムも、この魔術的な「デザイン」を遂行するために、既成の「デザイン」を無理解のまま利用する。たとえば、学術における統計や経済における広告だ。つまり政治システムは、学術や経済を信頼する自己を信頼しているのである。一方で、学術や経済は法を信頼する自己を信頼している。したがって、法が信頼する政治は、学術や経済を信頼し、政治が信頼する学術や経済は、法を信頼している。つまり信頼関係とは、必然的に循環論法に直面するという訳だ。

 したがって、信頼に根拠付けは不可能である。既成の信頼関係が崩壊するならば、別の信頼を引き合いに出すことで負担を免除していかなければならない。だが負担を免除させるための新たな信頼もまた、崩壊の危機にさらされる。それ故、我々は既成の信頼を常に新たな信頼に展開していくことで、パラドクスを隠蔽し続けていかなければならないのだ。

 これを前提に言えば、法システムが可能なのは信頼の達成ではない。法システムに可能なのは、不信が生じたとしても尚信頼を選択可能とするための期待を維持することに過ぎない。信頼に根拠付けを求めれば、信頼関係はパラドクス化する。法システムは、このパラドクスを潜在化させることで、信頼関係を顕在化させているのだ。しかし、法システムが指し示す合法的な公式性に関しても、目的外使用可能性が生じる。言わば、不法に利用される合法性というパラドクスが発現するのだ。したがって、信頼関係のパラドクスを潜在化させた法システムは、代価的に法システムそれ自体のパラドクスを顕在化させることになる。パラドクスの隠蔽と発見は、「地」と「図」の関係なのだ。

結論

 以上の抽象化された考察を前提とするだけでも、「人間」への信頼が虚構であることは明らかとなる。法を利用すれば、「人間」に対する信頼の期待値を高めることは可能ではある。しかし、ある「人間」に関する信頼問題を法的に処理した場合、法に関する信頼問題が代価的に浮上する。法的な問題解決策は、常に問題解決されるべき問題解決策なのである。「人間」への信頼を基盤とした実用実践的な取り組みは、よく出来た出来レースと言えよう。

注釈

  1.  アルノルト・ゲーレン(著)、亀井裕(訳)『人間学の探求』紀伊国屋書店 (1999)、pp219-220を参照。
  2.  権力の詳細については、ニクラス・ルーマン(著)、長岡克行 (訳)『権力』勁草書房 (1986)、pp5-90を参照。また、法システムについては次の二冊の全般を参照されたい。ニクラス・ルーマン (著)、馬場靖雄 (訳)、江口厚仁 (訳)、上村隆広 (訳)『社会の法(1)』法政大学出版局(2003)、ニクラス・ルーマン (著)、馬場靖雄 (訳)、江口厚仁 (訳)、上村隆広 (訳)『社会の法(2)』法政大学出版局(2003)を参照。

  3.  これは、自己言及と外部言及の形式が、形式の内部へ再参入された現象を言い表している。これについては、ニクラス・ルーマン(著)、村上淳一(訳)『ポストヒューマンの人間論―[後期ルーマン論集]』東京大学出版局(2007)、pp117-135、ニクラス・ルーマン(著)馬場靖雄(訳)『社会の芸術』法政大学出版局(2004)、pp85-107を参照。

  4.  アルノルト・ゲーレン (著)、亀井裕(訳)『人間学の探究』紀伊国屋書店 (1999)、pp181-182を参照。

前のページへ目次へ次のページへ

トラックバックのURL

このブログ記事を参照しているブログ一覧: 予備考察1:法と「人間」のお別れ会

このブログ記事に対するトラックバックURL:

ポスト・ヒューマンの魔術師:ログ:ホームレス・ファシストに対するkajuntkさんの観察に対する私のセカンドオーダーの観察 (2008年9月19日 21:16)

 ソーシャル・ブックマーカーたちのための脊髄反射用キーワードを例示しておくと、「話し合いに参加する価値すらない」とか「人権それ自体はフィクションをベースに成... 続きを読む