ポスト・ヒューマンの魔術師

「自称人間」の時代からポスト・ヒューマンの時代へ。

「自称人間」たちの「動物」的な政治

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要約

 人間の意識は、知識社会の障害物である。現代社会は、無知社会だ。人間性の本質を追及するヒューマニストは、「自称人間」に過ぎない。このレポート(ウェブサイト)では以上のような見解を繰り返し述べてきたのだが、人間中心主義的にヒューマニズムを信じ込んできた読者たちの多くは、大いに傷付いたことであろう。以下からは、更に追い討ちを掛けることにしたい。

フランシス・フクヤマの素朴さ

 フランシス・フクヤマは、こうした現状を『人間の終わり』(1)であるとして嘆いていた。フクヤマの見解では、抗鬱剤プロザックは「欲望」の達成を脳科学的に代価すると言う。「欲望」の達成には他者が必要であることについては、既に述べた通りである。したがって、プロザックという学術的な構成物と他者という存在は、機能的に代価可能な等価物ということになる。フクヤマの見解によれば、この代価可能性が人間性の本質を脅かすという訳だ。

 しかし逆説的ではあるが、フクヤマのこの考察は、歴代のヒューマニストたちが自ら墓穴を掘り、深き墓穴で嘆き苦しんでいる光景をわかり易く描写してくれた。フクヤマの考察が言い表しているのは、「欲望」達成における他者性の代価可能性が人間性を棄却するということである。言うなれば、他者と手と手を取り合い「欲望」を達成していくことで、人間は人間的になるという訳だ。しかし、仮にこうした弁証法で人間的な人間が顕在化するとするならば、それは非人間的な人間の潜在化を後ろ盾としている。両者は「地」と「図」の関係だ。したがって、仮に他者と協同的に「欲望」を達成できる人間的な人間が存在するとすれば、その背後には他者と協働できない非人間的な人間が存在するということになる。フクヤマの綺麗事を真に受けるとなると、ヒューマニストが人間性の本質を保持するためには、自覚の有無を問わず、<手を繋いで貰えなかった非人間的な人間>を無視する必要があるということになる。

 これは包摂と排除の逆説だ。<手を繋いだ人間的な人間>を受け入れるには、<手を繋いで貰えなかった非人間的な人間>を排除する必要がある。とはいえ、非人間的な人間も、元を辿れば人間だ。同じ人間を排除することが「人間的な人間の本質」だというのならば、歴代の人間中心主義者たちは、非人間的な「自称人間」だということになる。フクヤマは「これが倫理的なだけでなく政治的な問題であるということを忘れてはならない」(2)と釘を刺す訳だが、無論その政治的と言うに相応しい見解を訊いて見たいところだ。

盲点を共有する参加型民主主義

 フクヤマのようにトランス・ヒューマニズムの技術的リスクに抗う論客が提起するオルタナティヴは、情報開示に基づく参加型民主主義である。だが無論、政治家もまた盲点からは逃れられない。したがって、政治家が権力を保持するためには、盲点を隠蔽しておかなければならない。それ故に政治家たちは、参加型民主主義を選択した。参加型民主主義とは、世論や国民が政治家の盲点を発見し難くするための手続きである。世論や国民を政治に参加させることによって、より多くの世論や国民の観察対象を政府と同一の観点へと方向付けることを可能にしたのだ。言わば、決定者と決定の被影響者という差異を極小化することで、決定者と被影響者は盲点を共有しているのである(3)。意思決定の集約を機能とする政治システムの観点から観れば、参加型民主主義は好都合なのだ。

 しかし、政治は学術や技術を理解している訳ではない。カール・ポパーの有名な反証可能性命題に象徴されるように、学術はテーマの同一性を前提とした上で寄与の差異を構成し続けるシステムである。しかし政治は、意思決定を集約しなければならない。それ故、テーマではなく寄与の同一性を重視する。そのため、テーマはむしろ差異化されることになる。政治家は、寄与の同一化が成功する可能性がより高いテーマを選択するのだ。この学術と政治の機能的な差異は、政治においてシンボルによる一般化を果たしたコミュニケーション・メディアとしての権力(4) を背景とすれば、頷けることである。と言うのも、仮に政治家の意思決定が容易く反証されてしまう程度の寄与であるとすれば、その政治家は権力を保持するという観点で負担を強いられるからだ。だからこそ、決定者と決定の被影響者が盲点を共有することは、権力保持の観点から好都合なのである。

 したがって、政治が重視するのは脱魔術化ではない。むしろ政治が重視するのは、「如何にして決定の被影響者を決定者と同一の方向性へと誘導させるのか」という、魔術である。盲点を共有していれば、寄与の非同一性による反証を被ることはないからだ。それ故、世論の人気を獲得した弁護士が政治家になるというのは、政治的に優れた選択である。世論は、お好みの政治家の観点と同じ方向性に着目する。マスメディアを介したアピールは、政治的な意思決定上の「デザイン」なのだ。今日、高視聴率を叩き出した番組の出演者たちは、政界参入というお釣りを被る。

 これを前提に言えば、政治は、学術や技術を無理解のまま利用することになる。「デザイン」が施されていない複雑な知や技術を背景とした場合、意思決定の集約が偶発性に晒されてしまうからだ。概して複雑なテーマでは、寄与が別様にもあり得てしまう。したがって寄与の同一化を目論む政治家は、単純な問題をテーマにする。

 たとえば「環境問題」は、寄与の同一化が成功する可能性がより高いために、政治家が選択したテーマに他ならない。政治の視点から観た外部環境と経済の視点から観た外部環境では、相対的に異なるはずだ。この場合、政治は外部環境を「自然環境」として絶対化することで、テーマを単純化することができる。そこで役立つのが、学術が用意した「自然環境破壊」に関する統計だ。ボルツが述べたように、「誰もが魔法にかかったように視線を数字に向ける。有り難いことに、統計は複雑性を覆い隠し、さまざまな連関を括弧に入れてくれるのだから。学問と政治の間に少しでも重なる部分があるとすれば、それはこれらの数字なのだ(5) 。皆が揃い踏みで外部環境を自然環境と読み替えているのは、政治と学術の橋渡しが可能であるという「ユーザーイリュージョン」の良い例であろう。無知でも無理解でも、政治は可能なのだ。

政界に「人間」はいるのか?

 環境管理型社会が支配的となった現代において、政治を実践するのは「動物」を管理する「人間」である。しかし、このように述べただけでは、「動物」と「人間」を区別するのは誰なのかという問題に直面する。たとえば人間中心主義を標榜する「自称人間」がこの区別を付与したならば、直ぐに非人間的な人間の排除に結び付くだろう。

 国家に人間性を要請する国民は、「自称人間」である。身近な具体例を挙げてみれば、政治家に国民年金の目的外使用に関する責任を追求する国民は、「自称人間」となる。政治家に辞職させたところで、国民年金の目的外使用を誘発させた政治システムの構造的な問題が解決されたことにはならない。政治家が辞職したのは、単なる供犠的手続きに過ぎない。つまり、政治家個人が辞職という形式で生贄になることで、政治システムそれ自体が魔術的に神聖化したという訳だ。

 こうした供犠的手続きは、政治システムの構造的な複雑性を「人間」の問題に摩り替えることによる機能的な単純化に他ならない。システムの問題を、「人間」の問題へと選択的に縮減しているのである。しかし繰り返すように、国家や国民が人間性の本質を追及することで政治的問題を語るためには、その本質的な規定に従わない全ての人間に「人でなし」というレッテルを貼る必要がある。だが、そもそも同じ人間であるはずの相手を非人間的な人間として排除する振る舞いは、それ自体非人間的だ。つまり、政治に人間性を要求する者は、自身が人間的な人間なのかを適切に把握することはできない。政治的問題を「人間」の問題へと転化する者たちは、「自称人間」なのである

環境管理型権力の導入

 この人間性の自己言及的パラドクスを背景とすれば、「環境管理型権力」の付け入る隙が生まれる。政治家も無論「動物」であるということは否めない。しかし、「動物」を管理するのは「人間」であるとされる。上述したように、「自称人間」が蔓延る政治的コミュニケーションでは、政治家には人間性が要請されるからだ。したがって政治家は、「自称人間」という出来レースに乗ることで、「動物」を管理する資格を獲得することになる。

 意思決定の集約を目指す政治システムでは、<ミーム複合体としての「デザイン」>が利用される可能性が高い。すなわち、「怒り」、「恐怖」、「空腹」を背景とした「生存」の問題と「性欲」を背景とした「生殖」の問題とをテーマとして選択することで、決定の被影響者を決定者の目論みへと方向付けることが可能になるのだ。上述した「環境問題」の例ならば、自然災害を想定した「恐怖」の問題や食料問題を想定した「空腹」の問題をテーマ化しているのである。他にも、セキュリティ対策は「怒り」や「恐怖」に基づいた方向付けとなる。

 こうした魔術的な「デザイン」を利用するために、政治システムは学術システムが用意した魔術的な統計経済システムが用意した広告的な宣伝を無理解のまま利用する。「怒り」、「恐怖」、「空腹」、「生殖」に言及する統計や広告は、無意識的に作動する身体の感覚器官に位置する<自分>の「動物」的な「欲求」を方向付ける「デザイン」なのだ。こうした「デザイン」を利用した政治家は、結果的には、国民のそれぞれが持つ意識する<私>の「人間」的な「欲望」を魔術的に方向付けることに成功する。方向付けられた国民や世論は、「動物」的な「欲求」として反応することになる。つまり政治家は、「自称人間」として振舞うことで、国民や世論を「動物」として仕立て上げているのである。

結論

 環境管理型社会の魔術的な技術は、ヒューマニストたちが信仰してきた人間性の妄想を、いとも簡単に砕いた。技術と他者性は機能的等価物である。他者への信頼は、システムへの信頼へと切り替えられた。「欲望の弁証法」は、既にその「実行可能性」を喪失している。人間本位な「欲望」の方向性は、もはや「動物」的な「欲求」の方向付けに取って代わった。複雑な事柄を毛嫌い、単純な事柄を求める我々は、この状況に有り難く思うことだろう。環境管理型社会の技術は、無知でも無理解でも利用できる「政治的デザイン」を体現しているのだ。

注釈

  1.  フランシス・フクヤマ(著)、鈴木淑美(訳)『人間の終わり―バイオテクノロジーはなぜ危険か』ダイヤモンド社(2002)を参照。
  2.  フランシス・フクヤマ(著)、鈴木淑美(訳)『人間の終わり―バイオテクノロジーはなぜ危険か』ダイヤモンド社(2002)、p21を参照。
  3.  如何なる決定にも盲点は伴う。構成主義的リスク論では、しばしばこの盲点をリスクと危険に区別している。詳細は、土方透 (著)、アルミン・ナセヒ (著)『リスク―制御のパラドクス』新泉社 (2002)を参照。
  4.  これについては、ニクラス・ルーマン(著)、長岡克行 (訳)『権力』勁草書房 (1986)、pp5-90を参照。
  5.  ノルベルト・ボルツ(著)、村上淳一(訳)『意味に餓える社会』東京大学出版(1998)、p90を参照。

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