環境管理型社会では、意識の<私>は等閑視されている。無意識的に作動する身体の感覚器官に位置する<自分>だけが、脚光を浴びるのだ。意識の<私>は、魔術的な「デザイン」を利用することで、こうした状況から生じる葛藤を隠蔽している。意識の<私>は、環境管理型の技術が如何にして設計されたのかに無知である。そして、そうした技術が如何にして身体を方向付けるのかについても、無知である。意識の<私>は、「デザイン」を利用することで、技術と身体を無理解のまま利用していくのだ。
こうした状況に置かれている人間たちを、東浩紀に倣い、「動物」と呼ぶことにしよう。「動物」とは、ヘーゲリアンのアレクサンドル・コジェーヴから東浩紀へと語り継がれた概念である(1)。「動物」は、「欲求」を持つ。たとえば空腹感や睡眠欲など、欠乏から満足への回路で「欲求」は成り立つ。一方、「動物」と対為す概念である「人間」は、「欲求」のみならず「欲望」も併せ持つ。「欲求」における欠乏から満足への回路が閉鎖的に自己完結できることに対して、「欲望」は他者を必要とする。
我々が意識する自由意思は、他の動物には無い特徴と言える。一方、無意識的な感覚器官は他の動物にも観られる。それ故、この「人間」と「動物」の区別は、<私>と<自分>の区別に対応するのだ。したがって、「動物」的な「欲求」は、「人間」的な欲望を上回る可能性が高い。「人間」としての<私>は、常に「動物」としての<自分>が選択した情報や概念を、改めて事後的に<私>として選択するからだ。「欲望」は、「欲求」により方向付けられているのである。環境管理型社会の制御対象となるのは、まさにこの「動物」としての<自分>である。現代社会は、この「動物」の「欲求」にスポットライトを当てることで、「剥き出しの生」を顕在化させている。<私>ではなく<自分>に語り掛けることで、<私>の自由意思の如何を問わず、社会秩序の成立に好都合な操作を施すことが可能になったのだ。
無論、自由意思を持つ誇り高き<私>の意識が等閑視されているからと言って、それは<退化>を意味する訳ではない。ヨハン・ゴットフリード・ヘルダーとアルノルト・ゲーレンが口を揃えて言うように、他の動物と比較検討した場合、「人間」は「欠陥動物」として観察できる(2)。人間の本能や感覚器官は他の動物に比して未発達だ。それ故、「純粋の本能、すなわち着実な効果をもつ生れついての運動の型、一定の行動図式にきちんと合っている運動の型を持ち合わせていないので、その欠陥には生命の危険さえ感ぜられる」(3)のである。
この関連から作為的に言えば、意識の<私>が発達したことにより、身体の感覚器官に位置する<自分>は<退化>したことになる。ゲーレンの論考を念頭に置けば、トランス・ヒューマニズム的な技術は、「器官代理」の原理に基づき、無意識的に作動する身体の感覚器官を補足してくれる。そして、技術による「器官の負担免除」が機能化されることで、<私>は、<自分>が身体を動かす労を担うという葛藤を隠蔽することができる。「器官の負担免除」と同時的に機能化される「器官凌駕」は、我々に更なる「動物」的「欲求」を享受する機会を与えてくれる(4)。
こうした見解からは、聡明な人類学者フォン・アイクシュテットらが提起した「自己家畜化」を想起できる(5)。バイオ技術や遺伝子技術をはじめとしたトランス・ヒューマニズム的な技術を利用した場合、人間が他の動物に施してきたように、<自分>を家畜的な飼育することになるのだ。しかし、「自己家畜化」する「動物」に比して「人間」を優先すべきとする見解に、残念ながら必然性は無い。それはヒューマニストの落ち度を観れば明らかである。
ハイデカーが何年も前に見抜いていたように、人間中心主義的に「人間」の本質を規定するためには、その本質に従事しない全ての「人間」に「人でなし」というレッテルを貼る必要があった(6)。ヒューマニストの物言いは、容易く逆手に取れる。人間的な人間ならば、同じ人間であるはずの非人間的な人間を排斥する訳がない。同じ人間を排除するのは、非人間的な振る舞いだ。小泉義之がバイオ技術をあえて徹底的に推進すべきだと言ったのは、このためである(7)。優生思想が非人間的ならば、非人間的な人間に偏見を持つ人間も、非人間的なのだ。したがって、動物化や「自己家畜化」に抗い「人間」を意識的に強調する<私>たちは、すぐさま非人間となってしまう。『<私>は「人間」だ』と主張する者たちは、「人間」ではない。彼らは単に「自称人間」であって、自他共に認める「人間」ではないのである。