無知な<私>に自信をくれる「環境管理型権力」
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要約
話を前に進めよう。先述したように、高度情報社会から知識社会へ発展した現代社会では、
人間の意識は邪魔である。意識が盲点を構成する限り、知識社会は
無知社会なのだ。一方、
閾下で無意識的に作動する身体の感覚器官は、閾上の意識が認識する情報を事前にフィルタリングしている。意識の<私>は、無意識の<自分>が選択した情報に準拠した上で、<私>としての情報選択を実行している。<私>は<私>としての盲点を形成するが、<私>は<自分>が捨象した情報の是非を知ることができない。<私>は、<自分>によって方向付けられているのである。
意識の<私>は相手にされていない
知識社会の代表格であるトランス・ヒューマニストたちは、人間の意識を相手にしていない。相手にしたとしても、意識の機能をモデル化する程度である。彼ら技術者たちが着目しているのは、むしろ閾下で無意識的に作動する身体の感覚器官だ。<自分>であり、<私>ではない。確かに、サイバースペースの仮想現実や拡張現実が脱空間的なコミュニケーションを可能とした。それ故、我々の身体は社会において潜在化していた。しかし、身体は隠蔽されたからこそ<意味の新大陸>
(1)として発見対象となる契機を得たのである。ジョルジョ・アガンベン流に言えば、「剥き出しの生」
(2)が顕在化したのだ。
身体の感覚器官を改良するトランス・ヒューマニズム的な技術は、意識の<私>ではなく、無意識の<自分>に攪乱を付与することになる。意識の<私>は、無意識の<自分>が選択した情報の中から、<私>としての選択を実行するのであった。だが一方で、無意識の<自分>は、トランス・ヒューマニズム的な技術によって選択された情報の中から、<自分>としての選択を実行している。つまり意識の<私>は、無意識の<自分>を経由することで、トランス・ヒューマニズム的な技術に方向付けられているのである。
既に述べたように、意識が無意識の業績に気付き易くなるのは、葛藤が生じた場合である。意識の<私>が上機嫌である時では、<私>は無意識の<自分>に気付くことが難しくなる。したがって、意識の<私>がトランス・ヒューマニズム的な技術によって方向付けられているとしても、その方向性で葛藤が生じない限り、意識の<私>が気付くことは無い。技術と身体の幻影的なユーザーである<私>は、無知で無理解のままに、技術と身体を利用することになるのだ。臆することなく表現するならば、意識の<私>は、「<私>自身が無意識の<自分>やトランス・ヒューマニズム的な技術を自在に利用している」というシミュレーションを目撃している。しかし実際には、意識の<私>は、技術によって方向付けられた無意識の<自分>によって、方向付けられているのである。
ここに来て、デザイナーの出番となる。意識の<私>は、無知でも無理解でも技術を利用しなければならない。そのためには、「デザイン」を利用することで、<私>の無知を癒す必要がある。ナノ技術に無知でも良い。バイオ技術に無知でも良い。サイボーグに無知でも良い。遺伝子技術に無知でも良い。利用さえできれば良い!こうした状況を構成するには、ユーザー・インターフェイスとしての「デザイン」が必要だ。「きみのコンピューターのスウィッチを入れなさい。ディスプレイ上できみを迎えるのはデジタルの危険な深淵ではなく、なじみ深いアイコンの配列であり、それがきみに従来どおりアナログの人間世界でふるまえばよいと示唆してくれます・・・・・・・」(3)。一方で、意識の<私>が<自在に利用しているという虚構>を享受することで上機嫌になるためにも、「デザイン」は必要になる。「今日のデザインはもはや機能主義的・即物的な透明性をめざすのではなく、自信をもってもらうこと、世界を信頼してもらうことをめざすのであって、啓蒙主義の側に立つというよりは宗教の側に立っているのだ」(4)。ボルツが述べる<宗教の機能的等価物としてのデザイン>を背景とすれば、「到底理解できないという惨めな気持、ついていけない難解な論理、こういったものを隠しているのが、知的な製品なのである」(5)。たとえトランス・ヒューマニズム的な技術だとしても、「デザイン」を施すことで、ユーザーは無知であることに自信を持てるのだ!
環境管理型社会
恐らくこうした「デザイン」を現代社会で最も巧みに利用しているのは、思想家の東浩紀が言及している「環境管理型権力」である。東によれば、
現代社会は、規律訓練型社会(6)から環境管理型社会(7)へと移行した。前近代的な権力は、命令と服従の形式から構成される君主型の権力であった。しかし前期近代になると、社会の構成員が規律訓練的に主体化されることで、自発的に権力に服従する形式へと移り変わった。とりわけ教育システムや組織システムでは、構成員の内面を主体化させることで、自発的に権力に迎合させていた。社会秩序は、物理的な拘束以外にも、構成員の主体性によって支えられていたのである。
規律訓練型社会では、構成員が社会に好都合な行為を主体的に遂行することが求められていた。しかし一方で、環境管理型社会は、<私>の主体性や自発性は加味されない。あくまで身体の技術的データベースのみで事足りてしまう。この典型的な例が、ジョージ・リッツァが提唱した「マクドナルド化する社会」(8)である。規律訓練型権力を前提として人間が人間を管理する場合、権力は二重偶発性問題に晒されてしまう。「しかしながら、人間によらない技術体系での制御は簡単で、長い目でみれば経費もかからず、管理職や経営者にたいする敵意も生じない」(9)。たとえば、ファーストフードに設置されている硬い椅子が、客の回転率を高めるための「デザイン」であるという話は、あまりにも有名だ。他にも、デイヴィット・ライアンが言及した監視化(9)を挙げられる。バイオメトリクスをはじめとしたアーキテクチャを実装したアクセス・コントロールならば、指定された身体のみの入退室を許可することで、行為を制御することが可能になる。内部の構成員の身体のみを入室可能として設定しておけば、部外者の身体を排除することも可能だ。こうした環境管理において、構成員の意識は重視されない。
結論
「環境管理型社会」では、無意識の<自分>は身体を操作する技術により日常的に方向付けられている。「環境管理型権力」は、意識の<私>に葛藤を与えないまま無意識の<自分>を操作している。それ故、意識の<私>は、無意識の<自分>が技術によってコントロールされているということに、中々気付かない。それどころか、無知を癒す「デザイン」を享受することで、意識の<私>は無知でも無理解でも気に留めずに日常生活を営んでいる。もはや着目されるのは無意識的に作動する身体の感覚器官である。意識は相手にされていない。しかし、「デザイン」のお陰で意識の<私>は、そのことに不快感を持たずに過ごすことができるようになったのである。
注釈
- ノルベルト・ボルツ(著)、村上淳一(訳)『意味に餓える社会』東京大学出版会(1998)、pp126-129及び、ノルベルト・ボルツ(著)、村上淳一(訳)『世界コミュニケーション』東京大学出版会(2002)、p247を参照。
- ジョルジョ・アガンベン(著)、高桑和巳(訳)『ホモ・サケル―主権権力と剥き出しの生』以文社(2003)を参照。
- ノルベルト・ボルツ(著)、村上淳一(訳)『意味に餓える社会』東京大学出版会(1998)、p26を参照。
- 同上。
- ノルベルト・ボルツ(著)、村上淳一(訳)『世界コミュニケーション』東京大学出版会(2002)、p220を参照。
- ミシェル・フーコー(著)、田村俶(訳)『監獄の誕生―監視と処罰』新潮社(1977)を参照。
- 「環境管理型社会」は東浩紀の言葉だが、そのバックグラウンドにはドゥルーズの影響がある。ドゥルーズは、フーコーの業績を引き継ぎ、規律訓練型社会から管理社会への移行を指摘したのである。これについては、ジル・ドゥルーズ(著)、宮林寛(訳)『記号と事件―1972-1990年の対話』河出書房新社(1996)及び、東浩紀(著)、大澤真幸(著)『自由を考える―9・11以降の現代思想』NHKブックス(2003)を参照。
- ジョージ・リッツア (著)、正岡寛司 (訳)『マクドナルド化する社会』早稲田大学出版部 (1999)及び、 『マクドナルド化の世界―そのテーマは何か? 』早稲田大学出版部 (2001)を参照。
- ジョージ・リッツア (著)、正岡寛司 (訳)『マクドナルド化する社会』早稲田大学出版部 (1999)、p166を参照。
- たとえば、ディヴィッド・ライアン(著)、田島泰彦(訳)、清水知子(訳)『9・11以後の監視―"監視社会"と"自由"』明石書店 (2004)を参照。
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