ポスト・ヒューマンの魔術師

「自称人間」の時代からポスト・ヒューマンの時代へ。

中間考察2:魔術的「デザイン」の進化論

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要約

 「怒り」、「恐怖」、「空腹」、「性欲」を方向付ける「デザイン」は、進化上有利となる。

問題解決されるべき問題解決

 学術と技術が発展していけば、外部環境に位置する我々はますます環境複雑性に晒されることになる。トランス・ヒューマニストたちは我々の身体との構造的なカップリングを促すために、我々自身は身体を巡る選択を迫られる。それ故、ウルリッヒ・ベック(1)やフランシス・フクヤマのように、リスク・コミュニケーションを強調する論客が表われるのは、尤もなことだ。しかし、リスク・コミュニケーションを展開している観察者が言及しているのは、あくまで顕在的なリスクである。潜在的な危険性ではない。「潜在的な危険がある」と指摘することも、無論より潜在的な危険性を見落とすことで可能となる認識に他ならない。リスクを語る論客たちは、より潜在的な危険性を盲点として等閑視するからこそ、より顕在的なリスクを認識することができるのだ。

 したがって、「問題発見」とは、発見可能な問題の発見に終始することを意味する。そして「問題解決」とは、常に問題解決されるべき問題解決に過ぎない。かくしてリスク・コミュニケーションは、循環的に連続していく訳だ。「こうして問題が問題を派生させるという事態が「原理的に」解決されるものではなく、進化によって解消されるしかないことは、明らかである(2)

ミーム複合体としての「デザイン」

 したがって、如何なる「デザイン」が有効であるのかという問題提起には、事前に解答することはできない。ある「デザイン」の機能性を高めることで進化上の優位性を高めることは可能である。しかし、「デザイン」の機能性を高めている時点で、既にデザイナーは新たな「デザイン」を構成してしまっている。それ故デザイナーは、ある「デザイン」の「デザイン」まで遡及することで機能性を高めなければならない。したがって、デザイナーが事前に「デザイン」の有効性を高めることは不可能である。あくまで我々は、進化上の獲得物として顕在化している「デザイン」された「デザイン」を無理解のまま利用しなければならないのだ。

 しかし、この進化過程は、予期不可能にせよ、記述することはできる。と言うのも、既にネオ・ダーウィニストたちが文化をテーマ化する方法を「デザイン」してくれているからだ。進化論者リチャード・ドーキンスは、利己的な自己複製子としての遺伝子とそのアナロジーとして記述される文化的複製子を区別した。ドーキンスは、後者を「ミーム」と名付けている(3)。次いで進化論的心理学を調査するリチャード・ブロディは、文化的自己複製子としての「ミーム」を「心の中の情報の単位」であると定義した(4)。やがて「ミーム」と意識との関連性が注目され始めると、スーザン・ブラックモア(5)やダニエル・デネット(6)らが提唱した、「ミーム複合体としての<私>」が脚光を浴びることとなる。

 この進化論者たちの「デザイン」を利用することで、私は「デザイン」の進化理論を「デザイン」することにしたい。私が提唱するのは、すなわち、「ミーム複合体としての<デザイン>」である。この「ミーム複合体」という概念を利用することで、生き残る「デザイン」は如何にして生き残ることを可能にしているのかを読み解いていく。

 「利己的遺伝子を中心に種の進化が起きているように、考え、文化、社会の進化は、利己的ミームを中心として進行している」(6)。自己複製子としてミームは、利己的な遺伝子と同様に、変異や淘汰、あるいは保持に基づいた進化を可能としている。「何かが自己複製子とみなされるためには、それは変異、淘汰、および保持(すなわち遺伝)に基づく進化的アルゴニズムを維持しなければならない。ミームはまちがいなく変異をともなっており―物語が二度まったく正確に同じに語られることはまずないし、二つの建物が絶対的に同じということもないし、あらゆる会話は独自である―、ミームが伝えられていくとき、そのコピーがつねに完璧ということはない」(7)

 これを前提にすれば、生き残る「ミーム複合体としての<デザイン>」は、他の「デザイン」とのミーム的な淘汰に晒される中で、変異と保持の連続から自己複製を成し遂げているということになる。つまり「デザイン」は、常に他の「デザイン」の「実行可能性」を潜在化させることで自らを顕在化させることを可能とした「デザイン」でなければならないのだ。さもなければ、その「デザイン」は瞬く間に他の「デザイン」によって潜在化してしまう。生き残りを賭けたミーム的淘汰に勝ち抜くためには、絶えず新たな差異を構成していく必要がある訳だ。

 ブロディによれば、原初的なミームは差異を構成する「識別ミーム」(8)だとされている。ミーム・プール内には種々の「識別ミーム」が淘汰に晒されている。区別は常に別様にもあり得るためだ。こうした「識別ミーム」同士の戦いを背景にすれば、単一の差異や同一の「デザイン」では生き残ることは不可能であるということが、よくわかる。

「怒り」、「恐怖」、「空腹」、「性欲」の「デザイン」

 ここで、更にブロディに倣うことで、一歩前進した見解を指し示してみよう。すなわち、生き残る「ミーム複合体としての<デザイン>」は、「怒り」、「恐怖」、「空腹」、そして「性欲」など、原始情動や基本情動に関連するミームである傾向が、比較的高いということである。

 ブロディによれば、「私たちが行う深い思考や私たちが作り上げるすばらしい知的モデルは、すべて生存と生殖に対するこれらの脳の高等な機能の上にクラッジ的に構築されたものである。いっぽう、生存と生殖に対するこれらの脳の高等な機能は、生存と生殖に対する原始的機能(怒り、恐怖、空腹、性欲)の上にクラッジ的に構築されたものである」(8)。遺伝子は自己複製を継続するために、脳の模倣的機能を進化させ、原初的機能として「怒り」、「恐怖」、「空腹」、「性欲」を指し示す識別ミームを偶発的に産出した。次いで、これら四種類の識別ミームは、自己複製の過程から、戦略ミームや関連づけミームをはじめとする多種多様なミームを偶発的に産出した。ここで言う偶発的な産出とは、クラッジ的な複製に他ならない。「怒り」、「恐怖」、「空腹」、「性欲」を指し示す識別ミームは、脳の模倣的機能の進化上クラッジ的に複製されてきた。だが、それ以外の多種多様なミームはこの四種類のクラッジ的な複製を前提とした上で、更なるクラッジ的な複製として産出されてきたミームである。つまり、原初的な四種類の識別ミームよりも、それ以外の多種多様なミームの方が、偶発性の度合いが大きいのだ。

 「怒り」、「恐怖」、「空腹」は、「生存」への「認識」に直結する。利己的な遺伝子は、自己複製を継続するために、「生存」する必要があった。それ故、自己の「生存」を危うくする相手に遭遇した場合は、「怒り」や「恐怖」のミームが複製されることになった。「腹が減っては戦ができない」のだから、「空腹」というミームが複製されることは重要であった。「空腹」という識別ミームが発端となり、敵と戦い、「怒り」という識別ミームが複製されることもあっただろう。「性欲」という識別ミームは、それ自体「生殖」への「認識」を物語る。子供は親の遺伝子を継承する。したがって、「生殖」を実現することで、利己的な遺伝子は複製を完了する。「生殖」の相手を獲得するために戦闘が勃発することもあっただろう。それ故、「怒り」という識別ミームが複製されることにもなっただろう。

 「怒り」、「恐怖」、「空腹」、そして「性欲」は、他の多種多様なミームの複製に比して、偶発性やクラッジ度が低い。したがって、より頻繁に複製される可能性が高いということである。故に、これら四種類のミームに直結する「生存」と「生殖」への「認識」は、他の「意味づけ」に比して頻発すると考えて、差し支えないはずだ。それどころか、他の様々なミームが「生存」と「生殖」を基盤とした上でクラッジ的に複製されているとすれば、他の様々な「認識」は「生存」と「生殖」に対する「認識」を前提とした上で遂行されているという仮説を立てることも可能だ

展望

 「デザイン」が機能的な単純化を促すのだとしたら、「デザイン」された「デザイン」はより効果的に機能する。効果的な「デザイン」として観察される「デザイン」は、確かに生き残る。生き残った「デザイン」は、繰り返し利用されるだろう。だがそれは、ある特定の「デザイン」が没入の対象として顕在化することで、「デザイン」に伴う潜在的な危険性が等閑視されていることを意味する。さもなければ、リスキーな「デザイン」を選択する理由が無くなる。認識を方向付けるには、まずその方向性に方向付けられなければならない。

 しかし、無理解のまま利用することで前進していくことこそが「デザイン」の醍醐味なのであった。それ故、「デザイン」された「デザイン」を利用する観察者は、通常「デザイン」に伴う潜在的な危険性の全てを理解する必要は無い。理解する必要があると主張するならば、直ぐにまた終わりなき脱魔術化の追求という魔術的な束縛に駆られることになる。言うなれば、デザイナーはその馬が何故何処から来たのかを知らなかったとしても、勝ち馬に乗らなければならないのである。

注釈

  1.  ウルリッヒ・ベック (著)、東廉 (訳)、伊藤美登里 (訳)『危険社会―新しい近代への道』法政大学出版局 (1998)を参照。

  2.  ノルベルト・ボルツ(著)、村上淳一(訳)『世界コミュニケーション』東京大学出版会(2002)、p223を参照。

  3.  リチャード・ドーキンス (著)、日高敏隆 (訳)、岸由二 (訳)、羽田節子 (訳)、垂水雄二 (訳) 『利己的な遺伝子 <増補新装版>』紀伊國屋書店; 増補新装版 (2006)pp291-311を参照。尚、我々の文化理解はニクラス・ルーマンの文化理解(ニクラス・ルーマン、佐藤勉、『社会システム理論(上)』、1993、pp256-257)に準拠する。

  4. リチャード・ブロディ (著)、森弘之 (訳)『ミーム―心を操るウイルス』講談社 (1998)p45を参照。

  5. スーザン・ブラックモア (著)、垂水雄二 (訳)『ミーム・マシンとしての私(上)』草思社 (2000)、pp177-204を参照。

  6. ダニエル・C. デネット (著)、山口泰司 (訳)『解明される意識』青土社 (1997)、pp249-267を参照。

  7. リチャード・ブロディ (著)、森弘之 (訳)『ミーム―心を操るウイルス』講談社 (1998)p138を参照。

  8. スーザン・ブラックモア (著)、垂水雄二 (訳)『ミーム・マシンとしての私(上)』草思社 (2000)p56を参照。

  9. リチャード・ブロディ (著)、森弘之 (訳)『ミーム―心を操るウイルス』講談社 (1998)p61を参照。

  10.  リチャード・ブロディ (著)、森弘之 (訳)『ミーム―心を操るウイルス』講談社 (1998)p154を参照。

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