ポスト・ヒューマンの魔術師

「自称人間」の時代からポスト・ヒューマンの時代へ。

中間考察1:魔術的「デザイン」の方法論

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要約

 ボルツの主張は、<宗教の機能的等価物としてのデザイン>により、学知や技術に伴う構造的な複雑性を機能的に単純化していくということであった。「デザイン」とは、到底理解できない学知や技術を無知のまま利用可能にする魔術である。魔術的なスタンスの可能性は既に記述した通りである。以下からは、こうした「デザイン」は如何にして可能なのかを問う。

区別からの出発

 ボルツによれば、「デザイン」は区別から始まる(1) 。差異理論的に言えば、この出発点は的確だ。そもそも「デザイン」が必要となるのは、トランス・ヒューマニズムをはじめとした学術と技術が、学知や身体に関する複雑性を増大させていくためである。複雑性が顕在化すれば、単純性は潜在化する。学術と技術が複雑性を発見するということは、代価的に単純性が盲点として隠蔽されるということだ。ところが、ある意味が潜在化した場合、その意味は後に顕在化するための契機を獲得する。既に隠蔽されているからこそ、単純性は発見対象となり得るのである。発見と隠蔽は、地と図の関係なのだ。

 したがって、無知でも無理解でも利用できる学知や技術を「デザイン」するためには、ユーザーに単純性を発見させるように仕向けなければならない。デザイナーには、単純性を顕在化させる必要がある訳だ。単純性を顕在的な発見対象として仕立て上げるということは、複雑性を潜在的な盲点として隠蔽させるということである。と言うのも、両者は地と図の関係だからだ。

 これを実行するためには、単純性と複雑性を区別する必要がある。したがって、上述したボルツの方法は、正しい。「デザイン」は、区別から出発すべきだ。しかし、システム理論的に言えば、ある区別を付与するということは、それ自体一つの機能的単純化である(2)。つまり、区別それ自体が、既に単純化された「デザイン」なのだ。それ故、ある区別が付与された場合、その区別は顕在的に発見された区別に他ならない。顕在的な発見対象としての区別が構成されているということは、潜在的な盲点としての区別が隠蔽されているということになる。区別は、別様にもあり得たのだ。したがって、ある区別を付与するためには、その区別を別様の区別と区別する必要がある。ある区別は、常に<ある区別と別の区別>の区別によって構成されているのである。

 不作為の原理を前提にすれば、「区別しないこと」もまた一つの区別に他ならない。「区別しないこと」を発見するためには、「区別すること」を隠蔽する必要がある。つまり、「区別しないこと」を選択したデザイナーやユーザーは、自覚の有無を問わず、「区別しないこと」と「区別すること」を区別しているのである。

 無知なユーザーの観点に立てば、デザイナーが区別を付与した直後から、単純性が顕在化する。たとえばプレゼンテーションの演出は、学知の代表的な「デザイン」である。プレゼンテーションは、非専門家では到底理解できない複雑高度な学知を、機能的に単純化させているのだ。この場合、学知を理解している専門家は、<入門書レベルの学知>と<ノイジーに聞こえる学知>とを区別している。複雑な学知の体系から、非専門家でも理解できる単純明快な部分のみを顕在化させることで、非専門家では理解不能な学知を潜在化しているのだ。

 プレゼンテーションを清聴したユーザーは、無論顕在化した<入門書レベルの学知>のみを発見する。専門家の「デザイン」の結果潜在化した<ノイジーに聞こえる学知>など、知る由も無い。しかし、そのプレゼンテーションの「デザイン」が成功を収めれば、ユーザーはその専門家が演説で云わんとした内容を理解したつもりになる。非専門家は、無知でも無理解でも、専門家が発表した学知を利用できるようになるのだ。逆に言えば、「デザイン」に失敗すれば、ユーザーは無知に直面する。デザイナーが区別した<入門書レベルの学知>と<ノイジーに聞こえる学知>との境界が、ユーザーが区別する境界と合致しなければ、ユーザーは単純性を発見できないのだ。

「実行可能性」という便宜の尺度

 如何なる区別を付与するのかは、「実行可能性」の如何に基づく。「真の道」ではなく「合っているもの」を選択すれば良いのだ。とはいえ、「合っているもの」の尺度を明らかにしない限り、「実行可能性」の有無を区別することができない。これについて、システム理論は既に返答を用意している。すなわち、自己言及的パラドクス化の展開操作である。

 自己言及的パラドクス化の展開操作は、差異理論的な意味論に立脚している。自己言及的パラドクス化の展開操作を利用することで、観察者は自明の現象を偶発的な現象として観察することが可能になる。デザイナーからすれば、この視座は貴重である。と言うのも、デザイナーは、新たな区別を付与しなければならないからである。新たな区別を付与するということは、既に構成されている区別を潜在化する必要があるということだ。デザイナーが付与した区別が潜在化したままであれば、未だ既成の区別が顕在化しているということになる。このままでは、「デザイン」が構成するはずの機能的な単純性が潜在化してしまう。したがってデザイナーには、自己が構成する機能的な単純性を顕在化するために、既成の区別を潜在化する必要があるのだ。

 自己言及的パラドクス化には、既成の区別を潜在化させる機能がある。デザイナーは、自己が付与する区別と既成の区別への自己言及的パラドクス化を同時に実行することで、自己が構成した機能的単純性を顕在化させることが可能になるのだ。したがって以下から、自己言及的パラドクス化の方法を説明していこう。

自己言及的パラドクス化の方法論

 通常、区別は人為的構成物である。常に別様にもあり得る訳だ。それ故、如何なる区別の付与も可能ではあるが必然ではない。ある区別が、他の区別に比して絶対性を獲得することは、あり得ない。しかし、如何なる区別も自己言及的パラドクスに陥る意味では、必然的に限界に直面することになる。

 自己言及的パラドクスを一言で要約するならば、ある差異を構成する区別が同時的に当該区別それ自体を区別できないが故に生じる自己矛盾である。既に述べたように、ある区別は、常に<ある区別と別の区別>の区別から構成されている。だが、ある区別を付与している観察者は、その時点で同時的に<ある区別と別の区別>を区別している訳ではない。それは不可能だ。と言うのも、ある区別を付与している観察者が<ある区別と別の区別>を区別するには、不可避的に時間を要するからである。観察者は、同時に二つの区別を付与することができない。同時に二つの区別を付与したと自認することは可能だが、それは無論<二つの区別とその他の区別>を区別しているに過ぎない。したがって、ある区別と<ある区別と別の区別>の区別を同時的に付与することも、不可能なのだ。

 これを前提に言えば、ある区別を付与している観察者は、その時点で不可避的に<ある区別と別の区別>の区別を盲点として等閑視しているということになる。たとえばボルツが述べたように、「あまりにも普通のことなのでとくに意識されないが、文化批判は批判的/肯定的という区別を用いて行われるのだ」(3)。抜け目の無い批判理論家でさえ、<批判的区別と肯定的区別>の区別までは、批判し切れていないのだ。逆に言えば、批判理論家は、<批判的区別と肯定的区別>の区別を無批判に利用することで、批判を可能としているのである。彼らは、この無批判性を盲点として隠蔽することで、批判的区別を発見しているのである。

 既成の区別を自己言及的パラドクス化させた場合、既成の区別はその自明性を喪失する。と言うのも、自己言及的パラドクスに陥った区別は、不可避的にその限界を曝け出すことになるからだ。如何なる区別も、別様にもあり得た区別を盲点として等閑視した上で顕在化している。既成の区別を自己言及的パラドクス化させるということは、その潜在的な盲点を顕在化させるということだ。盲点が顕在化するということは、代価的に既成の区別それ自体が潜在化するということである。両者は地と図の関係だからだ。

 したがって、デザイナーは、新たな区別を付与する機会を得る。自己言及的パラドクス化により、既成の区別の盲点はもはや顕在化している。その盲点の顕在性が意味するのは、既成の区別による機能的単純化では対応できない構造的な複雑性が顕在化したということである。複雑性と単純性は地と図の関係だ。よって、単純性が顕在化するための契機が生じる。かくしてデザイナーは、既成の区別の潜在化と新たな区別の顕在化を成し遂げることになる。

 上述した批判理論の自己言及的パラドクス化を例に挙げるならば、批判理論の盲点を発見したデザイナーは、批判理論が対応できなかった構造的な複雑性を機能的に単純化することになる。<批判的区別と肯定的区別>の区別を無批判的に利用されている状況を発見したならば、デザイナーは肯定的区別を顕在化させることで機能的単純化の役割を与えることが可能になる。あるいは、[<批判的区別と肯定的区別>の区別と別の区別]を区別することで、批判的区別でも肯定的区別でもない新しい区別を付与することが可能になる。いずれの区別にせよ、批判理論が自己言及的パラドクス化された直後に付与された新たな区別である。それ故、この新たな区別は、批判理論の盲点を埋め合わせるために機能する区別として期待されることになる。この新たな区別は、批判理論が等閑視していた盲点への対策として「合っている」のだ。したがってこの新たな区別には、「実行可能性」が伴っている。

自己言及的パラドクス化の展開操作

 しかし、デザイナーが自己言及的パラドクス化を兼ね備えて付与した新たな区別にもまた、自己言及的パラドクスが伴う。たとえば、上記の肯定的区別の付与には、批判的区別さえ肯定的に利用してしまうという背理があろう。この場合、再度批判理論を顕在化させる契機が生じることになる。あるいは、全く別様の区別を顕在化させることも可能になる。とはいえ、「デザイン」に求められるのは、「真の道」ではなく「合っているもの」だ。特定の真理を維持する筋合いは無い。如何なる区別を付与するのかは、その時点で便宜的に決定して構わないのだ。再度ボルツの言葉を引き合いに出すならば、自己言及的パラドクス化の展開操作は、「隠された認識の部屋を開けるキイであり、いつでももっとよく合うキイに取り替えられるものである」(4)のだ。

注釈

  1.  ノルベルト・ボルツ(著)、村上淳一(訳)『世界コミュニケーション』東京大学出版会(2002)、pp215-216を参照。
  2.  これは、単純性と複雑性を区別する形式が、形式の内部へ再参入される逆説的な現象を言い表している。「形式の形式への再参入」に関しては、ジョージ・スペンサー=ブラウン(著)、大澤真幸(訳)、宮台真司(訳)『形式の法則』朝日出版社(1987)、ニクラス・ルーマン(著)、村上淳一(訳)『ポストヒューマンの人間論―[後期ルーマン論集]』東京大学出版局(2007)、pp117-135を参照。
  3.  ノルベルト・ボルツ(著)、村上淳一(訳)『意味に餓える社会』東京大学出版会(1998)、pp197-200を参照。
  4.  ノルベルト・ボルツ(著)、村上淳一(訳)『意味に餓える社会』東京大学出版会(1998)、p278を参照。

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