ポスト・ヒューマンの魔術師

「自称人間」の時代からポスト・ヒューマンの時代へ。

魔術的な「デザイン」の「実行可能性」

前のページへ目次へ次のページへ

要約

 先述した「デザイン」を利用することで、我々は無知で無理解な自己を癒すことが可能になる

無知を癒す「デザイン」

 既に述べたように、「デザイン」は不確実性を吸収する。言い換えれば、複雑性を選択的に縮減する魔術だ。この魔術は、誰もが理解せずに利用可能であるという認識を我々に与えてくれる。したがって「到底理解できないという惨めな気持、ついていけない難解な論理、こういったものを隠しているのが、知的な製品なのである。(中略)ユーザーに親切だというのは、われわれの無知を癒す<技術のレトリック>である。デザイン独自のこうしたレトリックが、今日、世界的なユーザー幻想を生み出しているのだ(1)。「デザイン」が施された知識や技術は、理解せずに利用できる。こうした知識や技術による「ユーザー幻想」は、無論「デザイン」の魔術に掛けられた帰結ではある。しかし、それと同時に我々は、知識や技術という魔術を理解せずに利用することが可能になるのである。言うなれば、「デザイン」を通じることで、我々は魔術に掛けられると共に魔術を掛けることが可能になる訳だ。

 真面目な論客ならば、未だ脱魔術化を追及するだろう。ポスト・ヒューマニティを危惧するフランシス・フクヤマによれば、「真の自由とは、社会で最も大切にされている価値観を政治の力で守る自由を意味する」(2)とのことだ。一方、ポスト・ヒューマンの誕生日会を催すレイ・カーツワイルは、特異点に向けて更なる技術的発展を目論んでいる(3)しかし、彼らの大言壮語を実行に移すためには、「デザイン」による恩恵を切り捨てなければならない。「デザイン」を切り捨てるということは、眼前の複雑性に真っ向から挑むということである。それが「心脳問題」のような複雑極まりない学術的テーマであれば、終わりなき脱魔術化の追及という魔術的な束縛を呼び起こしてしまう。山本貴光と吉川浩満が述べているように、「どんなに時代がくだっても、どんなに知識が増大しても、その時代ごとに新たな装いのもとで、しかし本質的にはなにも変わることなく難問として繰り返し人間の前に立ちあらわれてくるという事態を認識することが、心と脳の関係を考えるさいに不可欠の前提」(4)となる訳だ。それ故、フクヤマが否定するにせよカーツワイルが肯定するにせよ、彼らが打ち出す問題解決は、常に問題解決されるべき問題解決に過ぎない。

 一方、ヘーゲルによれば、「ミネルヴァの梟は、黄泉の後にようやく飛翔する」と言う(5)。しかし、知識を「デザイン」することが可能ならば、我々は、夕暮れ時まですすり泣いている梟を励ますことができる。我々は、梟が快適に飛翔できるための方向性を指し示すことができる。そして我々は、もはや梟さえ無知でも飛翔できてしまうということを明らかにすることができる

「実行可能性」という尺度

 むしろ我々に必要なのは、既成の「デザイン」による方向付けに従事した上で、常に次の「デザイン」を自らで構成する視座である。良く言えば臨機応変であり、悪く言えば便宜主義だ。構成主義的なシステム理論の用語で言い換えれば、重視すべきは「実行可能性」である。「それによれば、われわれは学問の「真の道」を断念して、「合っている」もので満足しなければならない。合うものはすべていける。理論は真実なのではなく、隠された認識の部屋を開けるキイであり、いつでももっとよく合うキイに取り替えられるものである。だから、理論は現実に合えばよいのであり、「狷介」である必要はない(6)

 自己の身体さえ理解できないほどの複雑性を呼び起こすトランス・ヒューマニズムを背景に言えば、「どれくらい簡単に次のことができるだろうか」(7)という問いに答えてくれる「デザイン」ほど、有り難いものは無い。「そしてまた、この次にあなたが何かよく知らないものを手に取ったとき、初めてなのにすらすらと苦労なく使えたとしたら、ちょっと立ち止まってそれをよく調べてほしい。その使いやすさは偶然の産物ではないのだ。誰かがそれを注意深く上手にデザインしているのである」(8)。このドナルド・ノーマンのデザイン論は、我々の「知のデザイン」にヒントを与えてくれる。既成の魔術に依存するだけではなく、自ら魔術を利用する態度が重要なのだ。

結論

 無知を増大させる高度情報社会において、こうした「デザイン」は重宝される。「デザイン」とは言わば、構造的な複雑性を機能的に単純化させる魔術なのだ。トランス・ヒューマニズムの技術が我々の身体に関する無知を拡大するならば、そうした無知を癒すための「デザイン」が必要になる。「デザイン」が成功すれば、我々が無知でも無理解でも技術や学知を利用できているということを、もはやさして気に留める必要が無くなるのだ

注釈

  1.  ノルベルト・ボルツ、村上淳一、『世界コミュニケーション』、2002、p220を参照。
  2.  フランシス・フクヤマ(著)、鈴木淑美(訳)『人間の終わり -バイオテクノロジーはなぜ危険か』ダイヤモンド社(2002)、p253を参照。
  3.  レイ・カーツワイル(著)、井上健 (訳)、小野木明恵 (訳)、野中香方子 (訳)、福田実(訳)『ポスト・ヒューマン誕生 -コンピュータが人間の知性を超えるとき』日本放送出版協会 (2007)を参照。
  4.  山本貴光 (著)、吉川浩満 (著)『心脳問題―「脳の世紀」を生き抜く』朝日出版社 (2004)、p197を参照。
  5.  ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル (著)、藤野渉 (訳)、赤沢正敏 (訳)『法の哲学(1)』中央公論新社 (2001)を参照。
  6.  ノルベルト・ボルツ(著)、村上淳一(訳)『意味に餓える社会』東京大学出版会(1998)、p278を参照。
  7.  ドナルド・A・ノーマン (著)、野島久雄 (訳)『誰のためのデザイン?―認知科学者のデザイン原論』新曜社 (1990)、p85を参照。
  8.  ドナルド・A・ノーマン (著)、野島久雄 (訳)『誰のためのデザイン?―認知科学者のデザイン原論』新曜社 (1990)、p86を参照。

前のページへ目次へ次のページへ

トラックバックのURL

このブログ記事を参照しているブログ一覧: 魔術的な「デザイン」の「実行可能性」

このブログ記事に対するトラックバックURL: