学術の伝統は、合理性や学知を追求することであった。言わば脱魔術化を追及したのだ。たとえば周知のように、レヴィ=ストロース以降の構造主義者たちは、供犠的な手続きに懐疑的であった。ポスト構造主義者たちもまた、別の視点からこの供犠に抵抗した。とはいえ、政教分離やテクノクラート化が脱魔術化の業績であると考えるのは、学術的に浅墓だとされている。むしろ近代的な合理性や専門的な学知に依拠することで、供犠的な手続きが潜在的に遂行されるようになったのである。したがって、近代社会の潜在的な供犠的手続きに対して、脱魔術化を追及する知識人が現れたのは、不思議なことではない。
しかし、こうして学術に勤しむ知識人や専門家たちも、盲点からは逃れられない。繰り返すように、知識の獲得と盲点の形成は、「地」と「図」の関係だ。したがって、知識人や専門家たちも例外なく認識論的な限界に直面するのである。ジル・ドゥルーズが既に見抜いていたように、反復的に顕在化する出来事が必ずしも同一の意味を帯びている訳ではない(1) 。そこには差異が潜在している。これは学術においても然りだ。「シンボル」による「一般化」を果たした「コミュニケーション・メディア」(2) としての真理は、非科学的な差異を潜在化させることにより、研究や議論で反復的に利用される論理や方法の同一性を信頼可能としている(3)。「シンボルによる一般化は、縮減された複合性の伝達過程の一部を明示的なコミュニケーションの水準から相補的な期待化の水準に移すことを可能にし、そうすることによって、時間のかかる・ぎこちない・言語を用いた荒削りなコミュニケーション過程の負担を軽減することができる」(4)。しかし、そもそも真理の機能は、同一性を確定することではない。如何に真理の同一性を顕在化させたとしても、その同一性には不可避的な限界が伴うのだ。
失敗例として挙げられるのは、ユルゲン・ハーバマスである。ハーバマスは、根拠付けの虜となった。だがそれ故に、根拠付けの伴わないコミュニケーションを等閑視することになった。もし未だに<最終的根拠付け>が存在するというなら、無論その<最終的根拠付け>があることの根拠を訊いてみたいところではある。
直面した紛争を舞台に実施される「討議」は、心優しき了解を目指すものだ。ハーバマスは、「討議」がヘーゲル的な道徳性を帯びた「宥和」をもたらすと言う。だが、こう言っただけでは、合意を生み出す媒体では説明されないコミュニケーションを排除することになる。更にハーバマスは、了解を目指したロゴスが生活世界を形成すると言う。こうした生活世界は、宗教の代価物として理性を保持するとのことだ。しかし、「宥和」を追求し続けるということは、それ自体が信仰の域に達してしまっている。終わり無き脱魔術化の追求が、逆説的にも、魔術的な儀式を生み出しているのだ。ここにおいて、より良き立論のための<非強制>は、強制的に執行される羽目になる。ボルツが冷徹に宣告するように、ハーバマスは「世俗化による救済」というアドルノ的な訓えを、本気で崇拝してしまっているのだ(5)(※)。
上記のシステム理論的な観察は、学術の魔術化を指し示す。学術が発見した合理性や学知には、常に不可避的に盲点が伴っていた。聖と俗は、「地」と「図」の関係だ。聖が無ければ、俗も無い。俗性の追求が続くのは、常に聖なる魔術が潜在化していたためである。それ故、学術は逆説的な帰結に至ることになった。すなわち、終わりなき脱魔術化の追及が、魔術的に我々を呪縛しているのである。供犠への抗いのみならず、真理を追究する学術は不可避的に魔術化する。宗教学の巨匠ミルチャ・エリアーデは、この逆説を端的に言い表した。すなわち「<宗教を喪失した人びと>の大多数は、実際には宗教的振る舞い方や、神学、神話から解放されていない。これらの人間は、戯画にまで歪められ、したがってそれと認め難くはなっているものの、やはり宗教的魔術的な諸概念の瓦礫の山に往々埋もれているのである」(6)。アブラアム・モールの考察も指し示すように、「合理性がうまく侵入しないところ、(中略)人間が自分の環境の諸要素と諸力を全的に支配できない到るところに『神』は存在する」(7) という訳だ。
技術の発展が学知に依拠している以上、技術もまた終わりなき脱魔術化の追求という魔術的な束縛に駆られることになる。技術はもはや、無知でも無理解でも利用できてしまう。もはや技術の利用に、合理的な判断は必要ない。脱魔術的に構成された学知に準拠するはずの技術が、魔術的な信仰に利用されることもある。宗教戦争は、その典型的な例だ。
今や学術と技術と魔術は、機能的に代価可能な等価物となった。宮台真司が鋭く指摘するように、「科学が世界を自然法則によって説明できるようになればなるほど、じつはその説明自体によっては説明されない『端的な前提』が可視的になってきてしまう」(8) 。真理の追求が充足することは、あり得ない。終わりなき脱魔術化の追求という魔術的な束縛に備えるためには、知識人も専門家も、真理を諦めなければならない。ボルツの言葉で「言い換えれば、われわれに必要なのは知を増やすことではなく、知を造形することである。これを『知のデザイン』と名づけておこう。『教養』といったコンセプトや『本』のようなメディアは、ここでは何の役にも立たないのだ」(9)。
このボルツが提唱する「デザイン」をより深く考察するためには、<宗教の機能的等価物としてのデザイン>というテーゼに言及するべきであろう。「宗教の最も重要な機能は、不確実性の吸収にある。現代社会は複雑で先を読めないものだから、本質的なものを欠く存在にただでさえつきまとう不確実性を、途方もなく増大させた。(中略)デザイナーは物の使用に向けて人を誘惑しようというわけだから、技術に対して、そして内部を見通せない小道具に対して人が抱く不安を、払拭しなければならない」(10)。つまり、学術と技術と魔術が機能的に代価可能な等価物であるが故に、宗教的な魔術としてのデザインが学術的かつ技術的な効力を発揮するのである。