序論:無知社会へようこそ!
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要約
初めに、私の視座を簡潔に記しておこう。私の視座は、知識社会におけるトランス・ヒューマニズムの発達が、逆説的にも、我々の身体や技術に対する「無知」を拡張していくということである。
無理解でも利用できるコンピュータ技術
我々が日常的に利用するコンピュータ技術は、複雑高度な専門知識を持つ専門家が設計した産物である。しかし、知識を持たない非専門家でも、専門家が構想した手筈通りに利用すれば、大抵の場合上手く利用できる。しかし、専門家が用意した「手筈」に懐疑的になるユーザーは、多くはない。利用できている限り、懐疑的になる必要は無いからだ。
「手筈」を鵜呑みにするユーザーには、そのコンピュータ技術の構造を理解することに、必然性は無いのである。ドイツのメディア論者ノルベルト・ボルツが述べたように、「もはや根拠づける必要なしに円滑に遂行されるということが、技術的仕組みの魅力に他ならない。討議するまでもないのだ。技術とは、さまざまの原因と結果が織りなす複雑性をうまく縮減するものである」
(1)。
つまり、我々が技術を利用するということと、我々が技術を理解していることは、直結していないのである。少なからず日常的に普及している技術については、無知でも無理解でも、利用することができる。むしろ理解しなければ利用できないような技術では、日常的に普及することが難しくなるだろう。
身体を意味づけるトランス・ヒューマニズム
これを前提に言えば、情報技術を基盤として発展した現代社会は、人間の対応能力を等閑視したまま進展していく。トランス・ヒューマニストたちが開発する技術は、まさにそのフロンティアだろう。たとえば櫻井芳雄によれば、ブレイン・マシン・インターフェイスが登場したのは、脳のメカニズムが解明されたからではなく、脳のメカニズムを更に解明するための布石となるからである
(2)。しかし、たとえ念じるだけで画面上のカーソルや身体を動かせるようになったとしても、我々は如何にしてそれを動かすことが可能になったのかについて、知ることができない。ブレイン・マシン・インターフェイスが発達していけば、機械を身体のように操作することが可能になる。だが、我々が日常的に自分の身体を動かす場合、如何にして身体が動くのかを理解している訳ではない。多くの場合、身体は無意識的に作動する。脳との関連から、確かにブレイン・マシン・インターフェイスは我々の無知を解決してくれるように思える。しかし、無知でも無理解でも利用できてしまう以上、ブレイン・マシン・インターフェイスは更なる無知を形成するのだ。
ブレイン・マシン・インターフェイスのみならず、仮想現実、拡張現実、人工知能、ナノテクノロジー、バイオテクノロジー、遺伝子技術など、およそトランス・ヒューマニズムから提唱される技術は、無意識的に作動する身体器官の改良に照準を定めている。したがって人間の意識は、相手にされていない。とはいえ、ユビキタスなサイバースペースが支配的となった知識社会では、身体はむしろ潜在化しているはずだ。たとえば、マスメディアから電子メディアまでの発達を背景にすれば明らかなように、コミュニケーションは脱空間化させることが可能である。コミュニケーションの担い手が、その空間に位置する必然性は無い。情報の送信者と受信者が、同一空間上に位置する必要も無い。身体が不可視化され隠蔽されたとしても、コミュニケーションの担い手として選択されることが可能なのである。
身体が潜在化したということは、身体と区別された別の意味が顕在化するということである。サイバースペースでは、脱空間的なコミュニケーションが顕在化している(3)。身体の有無に比して、コミュニケーションの有無が重視されるのだ。これは、コミュニケーションの発見と身体の隠蔽が、地と図の関係だということである。とはいえ、意味論的に言えば、ある意味が発見対象となるには、その意味が既に隠蔽されていることが前提となる。逆に言えば、隠蔽されている意味は、新たな発見対象として顕在化する契機を獲得するのだ。この場合、身体は潜在化しているからこそ、より顕在化するための契機を獲得するのである。潜在的に隠蔽されているからこそ、発見対象となるのだ。ボルツと共に、「身体は最近発見された<意味の新大陸>だと言うことができよう」(4)。<意味の新大陸>として顕在化した身体は、社会における発見対象となるのだ。思想家ジョルジョ・アガンベンは、既にこの状況を「剥き出しの生」(5)として発見している。身体への言及は、意味のあるものとして重宝されるのだ。
この関連から、技術者たちは身体に意味を見出した。その最果てに位置するのが、トランス・ヒューマニストたちである。彼らは今後、身体に直結した技術を量産していくだろう。しかし、技術は無知でも無理解でも利用できるのであった。そして、技術から構成された知識社会は、実際には無知社会であった。したがって、トランス・ヒューマニズムの発展に伴い、我々は身体に関する無知に晒される。トランス・ヒューマニズムの技術が日常に普及されれば、我々の意識は身体と直結した技術を無理解のまま利用することになる。
結論
上記の背景を考慮するなら、私の視座は明確になる。私は、高度情報社会から知識社会への発展を背景として、人類を進展させるための知識が増幅していくということを、前提とする。
しかし、だからこそ我々は、自らの対応能力の範疇に及ばない無知の領域を拡張することになるのである。一方で私は、サイバースペースを介した仮想現実や拡張現実が、脱空間的なコミュニケーションを可能としたが故に、我々の身体が潜在化しているということを、前提とする。
しかし、だからこそ我々は、身体への意味づけを積極的に選択するトランス・ヒューマニズムに魅了されるのである。以上の視座に依拠することで観察することができる具体的な視野は、トランス・ヒューマニズムの延長線上に位置するポスト・ヒューマニティである。私は、現状異端視されているポスト・ヒューマンが、いずれ通常化するという視点に基づき、本レポートを展開していく。
注釈
- ノルベルト・ボルツ(著)、村上淳一(訳)『意味に餓える社会』東京大学出版会(1998)、p53を参照。
- 櫻井芳雄他(編)『ブレイン-マシン・インターフェイス最前線 脳と機械をむすぶ革新技術』工業調査会(2007)、pp10-15を参照。
- システム理論では、身体が潜在化した場合、代価的に人格が顕在化する。人格は、コミュニケーションの担い手か否かを区別する形式である。形式としての人格が顕在化している場合、身体はメディアとして潜在化する。人格は、身体の潜在性を後ろ盾とすることで、顕在化することが可能になるのだ。言わば人格と身体は、地と図の関係なのである。これについては、ニクラス・ルーマン(著)、村上淳一(訳)『ポストヒューマンの人間論―[後期ルーマン論集]』東京大学出版局(2007)、pp117-135を参照。
- ノルベルト・ボルツ(著)、村上淳一(訳)『世界コミュニケーション』東京大学出版会(2002)、p247を参照。
- 周知のように、アガンベンは近代の<生政治>を熟考している。人格は考慮されず、あくまで身体レベルでの統制こそが機能する権力なのだ。アガンベンは、その究極的な一例として、ナチスの強制収容所を挙げている。これについては、ジョルジョ・アガンベン(著)、高桑和巳(訳)『ホモ・サケル―主権権力と剥き出しの生』以文社(2003)を参照。
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