これまでの考察を要約しておこう。現実は複雑性に満ちているが故に、我々の意識は全ての現実を認識することができない。我々が認識できる現実は、選択的に縮減された部分的な現実に過ぎないのだ。よって、我々に必要なのは知を増やすことではなく、知を「デザイン」することである。「デザイン」とは、複雑性を選択的に縮減することで不確実性を吸収する魔術である。言わば我々には、構造的な複雑性に対する機能的な単純化を施す必要があるのだ。無視や忘却、あるいは感情に終始する姿勢も必要になることがある。
一方、トランス・ヒューマニズムの発達に伴い、学術と技術は知を量産することになる。高度情報社会における知の量産とは、我々の既知の領域のみならず無知の領域を増やすことに結び付く。もはや社会では、予測不可能であるということのみが予測され続けるのだ。
しかし、学術と技術が魔術化している以上、これらは機能的に代価可能な等価物に他ならない。したがって我々は、トランス・ヒューマニズム的な学術と技術を「デザイン」することで、その複雑性を選択的に縮減していくことが可能になる。ポスト・ヒューマンは、トランス・ヒューマニズム的な学術と技術を理解せずに利用していくのだ。
無理解のまま利用する態度が必要であると主張した場合、直ぐにそのリスクが注目を集める。しかし、リスク・コミュニケーションにできることは、より顕在的なリスクに没入すると同時により潜在的な危険性を等閑視することに限られる。トランス・ヒューマニズムにリスクが伴うとすれば、リスク・コミュニケーションにもリスクは伴う。
ポスト・ヒューマンの動向を倫理や道徳を持ち出すことで批判するヒューマニストたちでさえ、没入することを前提に観察を遂行している。この意味で、トランス・ヒューマニストとヒューマニストは同じ穴の狢だ。ヒューマニストがトランス・ヒューマニストに比して冷静な分析を展開し続けることに、必然性は無い。
いずれにせよ我々は、トランス・ヒューマニズム的な学術と技術の発達により、終わりなき脱魔術化の追求という魔術的な呪縛に直面することになる。我々にできるのは、知や技術により脱魔術化を果たすことではない。終わりなき脱魔術化の追及という魔術的な呪縛に対処するためには、我々自身が魔術を利用できるようになる必要がある。したがって、ポスト・ヒューマンの文化において必要となるのは、「デザイン」である。ポスト・ヒューマンは、こうした「デザイン」を介することで、トランス・ヒューマニズム的な学知や技術を理解すること無しに利用していかなければならないのだ。