ポスト・ヒューマンの魔術師

「自称人間」の時代からポスト・ヒューマンの時代へ。

ポスト・ヒューマンのリスク・コミュニケーション

  1. ポスト・ヒューマンの召喚:はじめに
  2. 単純性に没入する意識
  3. 学術と技術の魔術化
  4. 没入感を魔術的に方向付ける「デザイン」
  5. ポスト・ヒューマンのリスク・コミュニケーション
  6. 政治・法・倫理の格下げ
  7. 魔術の選択を促す経済
  8. ポスト・ヒューマンの召喚:結論

脱ヒューマニズムとしての「デザイン」

 したがってリスク・コミュニケーションは、眼前のカオスが対処可能であるかのような認識を構成させるための「デザイン」として機能する。やるべきことがわからない者でも、リスクを語れば何かした気でいることができる。これは皮肉なことなのだが、リスク・コミュニケーションにせよトランス・ヒューマニズムにせよ、潜在的な危険性に盲目的であるという点では、機能的に等価なのだ。しかし、そのリスク・コミュニケーションがヒューマニズムに傾斜しているようでは、複雑性の選択的な縮減を果たすことそれ自体が複雑になる。と言うのも、道徳や人間中心主義の思考形式には、選択性が無いからだ。

 ヒューマニストがリスクを語る場合、人間性に言及する。彼らにとっての問題発見とは、責任の観察である。道徳的に責任を負わせることで、問題解決と見なす訳だ。しかし、「道徳的な話題が好まれるのは、そうすれば考えなくてすむからである。道徳を持ち出す者は、学習し直すつもりがないのだ。無知にとどまろうとするこの態度は、別の見方をする者を肯定的だとか冷笑的だとか言って片づけることによって、自分は良心的なつもりになる(33) 。無論、非人間的な人間も人間であることに変わりは無い。ヒューマニストたちが人間的な人間を包摂するためには、非人間的な人間を排除しなければならない。だが、あえて作為的に裏を返して見せるならば、同じ人間を非人間として排除するヒューマニストの方が、より非人間的な人間であるとも考えられる。両者は「地」と「図」の関係なのだ。

 また逆説的にも、ヒューマニストは非人間的な人間から活力を調達している。法システムにおける複雑な問題は、犯罪者やテロリストを槍玉に挙げることで単純化することができる。自分が絶対に罪を犯さないと確信するナルシストたちの中には、死刑制度を賛美する者もいるかもしれない。政治システムにおける複雑な問題は、議員を辞職させることで単純化することができる。政治や世論を逆推論的に観察するマスメディアは、システムに向けられた<国民の怒り>(34) よりも、人間個人に向けられた<国民の怒り>を選択することで、複雑性を縮減している。テレビが特定の人物を選択することで、直面している複雑なシステムの問題を「誰が悪いのか?」という単純な問題へと切り替えることが可能になる訳だ。しかし逆に言えば、一連のコミュニケーションは、道徳的に否定できる人間が存在することで初めて成り立つ出来レースに過ぎない。ヒューマニストが道徳的な話題でその場を取り繕うためには、非人間的な人間に依存する外は無いのだ。

 こうしたヒューマニズムの陥穽に止めを刺したのが、オートポイエーシス理論(35) である。人間は、複雑なシステムの複合体だ。もはや我々が反復的に人の道を歩んでいたとしても、その反復は同一性を示さない。我々を構成する諸々の複雑なシステムは、動態的に作動する。システムは、自律的に自己自身と外部環境の差異を再構成し続けることで、作動を継続しているのだ。外部への言及は、自己への言及との差異でしかない。そして、外部への言及とは、外部への言及を遂行している自己への言及に他ならない(36)

 もはやヒューマニストが人間性を強調したとしても、その強調は外部環境の偶発性に晒される。「人間とは何か」というイマニエル・カント的な問題提起に対する回答は、常に別様にもあり得る訳だ。「こうして、カントを受け継いだ観念論者は袋小路に導かれた」(37) 。したがって「今日、「人間とは何か?」というカントの問いに答えようとする者は、デザインを学ばなければならない」(38) 。人間本位の道徳以外にも、構造的複雑性に対する機能的単純化を可能とする魔術は、無数に遍在する。たとえば、ブレイン・マシン・インターフェイスや遺伝子技術が発達することで、我々はより一層ポスト・ヒューマンとなる。ポスト・ヒューマンである我々は、ポスト・ヒューマンを「デザイン」することで、ポスト・ヒューマンである我々に方向付けを提供できるのだ。

注釈

  1.  ノルベルト・ボルツ(著)、村上淳一(訳)『意味に餓える社会』東京大学出版会(1998)、p199を参照。
  2.  「日本テレビ」(http://www.ntv.co.jp/)で放送されている『太田光の私が総理大臣になったら...秘書田中。』(http://www.ntv.co.jp/souri/index.html)を参照。(閲覧日時:2008/03/11)
  3.  ウンベルト・マトゥラーナ(著)、フランシスコ・ヴァレラ(著)、河本英夫(訳)『オートポイエーシス―生命システムとはなにか』国文社 (1991)を参照。
  4.  外部言及的にシステムの外部環境を観察するという現象は、あくまでシステム内部で繰り広げられている想定に他ならない。言い換えれば、我々が外部に接触していると認識した場合、それは我々自身が構成したシミュレーションに過ぎないということだ。
     このことは、社会システム理論的に説明することができる。まず「顕在的な形式としてのシステム」が<顕在的な形式としてのシステム>と<潜在的なメディアとしての外部環境>を差異化した場合、その時点では<顕在的な形式としてのシステム>が<潜在的なメディアとしての外部環境>に接触することは不可能である。何故ならそれは差異の横断を意味し、形式が破綻してしまうからだ。一方、<潜在的なメディアとしての外部環境>とは、「顕在的な形式としてのシステム」が構成した差異の一端である。したがって、外部言及的に外部環境を観察するという現象は、「顕在的な形式としてのシステム」の内部に発現した<潜在的なメディアとしての外部環境>への言及として把握することができる。つまり、外部言及的な観察とは、あくまで「顕在的な形式としてのシステム」の内部で遂行される現象である。故に厳密には、システムが外部環境に接触することによって観察を遂行することは、不可能である。このことに関しては、長岡克行 (著) 『ルーマン/社会の理論の革命』勁草書房 (2006)、pp184-198、ニクラス・ルーマン(著)馬場靖雄(訳)『社会の芸術』法政大学出版局(2004)、pp85-107を参照。
  5.  ノルベルト・ボルツ(著)、村上淳一(訳)『意味に餓える社会』東京大学出版会(1998)、p99を参照。
  6.  ノルベルト・ボルツ(著)、村上淳一(訳)『意味に餓える社会』東京大学出版会(1998)、p274を参照。

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