ポスト・ヒューマンの魔術師

「自称人間」の時代からポスト・ヒューマンの時代へ。

没入感を魔術的に方向付ける「デザイン」

  1. ポスト・ヒューマンの召喚:はじめに
  2. 単純性に没入する意識
  3. 学術と技術の魔術化
  4. 没入感を魔術的に方向付ける「デザイン」
  5. ポスト・ヒューマンのリスク・コミュニケーション
  6. 政治・法・倫理の格下げ
  7. 魔術の選択を促す経済
  8. ポスト・ヒューマンの召喚:結論

「デザイン」による方向付け

 魔術に掛けられたユーザーは、魔術が指し示す方向性へと没入することが可能になる。しかし、それが魔術であり盲点が伴うということを弁えているユーザーであれば、魔術が指し示す方向性に懐疑的になることもできる。一方で、「デザイン」の効力は学術や技術を理解せずに利用することを可能にすることである。そのため、「デザイン」された学術や技術を利用することで、ユーザーもまた魔術を利用することが可能になる。つまり、没入の方向性を自己自身で構成することが可能になる訳だ。

 真面目な論客ならば、未だ脱魔術化を追及するだろう。しかし、そのためには「デザイン」による恩恵を切り捨てなければならない。「デザイン」を切り捨てるということは、眼前の複雑性に真っ向から挑むということである。それが「心脳問題」のような複雑極まりない学術的テーマであれば、終わりなき脱魔術化の追及という魔術化の呪縛を呼び起こしてしまう。「どんなに時代がくだっても、どんなに知識が増大しても、その時代ごとに新たな装いのもとで、しかし本質的にはなにも変わることなく難問として繰り返し人間の前に立ちあらわれてくるという事態を認識することが、心と脳の関係を考えるさいに不可欠の前提」(25) となる訳だ。かくして「ミネルヴァの梟は、黄泉の後にようやく飛翔する」(26)

 むしろ我々に必要なのは、既成の「デザイン」による方向付けに従事した上で、常に次の「デザイン」を自らで構成する視座である。良く言えば臨機応変であり、悪く言えば便宜主義だ。とはいえ、我々は盲点から逃れられない。全ての認識は、没入することで可能となる。それ故、現実世界の全てに適応できる学術的真理を探究するには、魔術に頼らざるを得ない。学術にせよ技術にせよ、魔術であることには変わりはないのだ。「そしてまた、この次にあなたが何かよく知らないものを手に取ったとき、初めてなのにすらすらと苦労なく使えたとしたら、ちょっと立ち止まってそれをよく調べてほしい。その使いやすさは偶然の産物ではないのだ。誰かがそれを注意深く上手にデザインしているのである(27) 。このドナルド・ノーマンのデザイン論は、我々の「知のデザイン」にヒントを与えてくれる。既成の魔術に依存するだけではなく、自ら魔術を利用する態度が重要なのだ。

如何にして「デザイン」は可能か

 ボルツの主張は、<宗教の機能的等価物としてのデザイン>により、学知や技術に伴う構造的な複雑性を機能的に単純化していくということであった。言わば「デザイン」とは、没入の方向性を魔術的に指し示すことを言い表す。魔術的なスタンスの可能性は既に記述した通りである。以下からは、こうした「デザイン」は如何にして可能なのかを問う。

 ボルツによれば、「デザイン」は区別から始まる(28) 。差異理論的に言えば、この出発点は的確だ。と言うのも、我々の認識は没入を前提にしているからである。ある対象に没入しているということは、別の対象を盲点として等閑視しているということになる。没入の対象と盲点の対象は「地」と「図」の関係だ。したがって、双方に差異が伴わなければ、我々はある対象を認識することができない。差異を構成させるためには、区別が必要になる。故に、「デザイン」は区別から出発するべきだ。

 区別が付与されていない状況とは、得てして高度に複雑だ。レイ・カーツワイルが予言した「特異点」(29) に象徴されるように、トランス・ヒューマニズム的な学術と技術は加速的に発展していく。このカーツワイルの予言は、未来を見抜いているというよりも、むしろ技術者たちの終わりなき進歩への志を意味づけていると言えよう。未来の現実が現在の予言を構成しているのではなく、現在の予言が未来の現実を構成しているのだ。したがって、トランス・ヒューマニズム的な学術と技術が普及されることで、我々はますます理解せずに利用可能な学術と技術を利用することになる。つまりポスト・ヒューマンの文化には、「デザイン」が必要になるのだ。

 学術と技術が発展していけば、外部環境に位置する我々はますます環境複雑性に晒されることになる。トランス・ヒューマニストたちは我々の身体との構造的なカップリングを促すために、我々自身は身体を巡る選択を迫られる。それ故、ウルリッヒ・ベック(30) のようにリスク・コミュニケーションを強調する論客が表われるのは、尤もなことだ。しかし、リスク・コミュニケーションを展開している観察者が言及しているのは、あくまで顕在的なリスクである。潜在的な危険性ではない。「潜在的な危険がある」と指摘することも、無論より潜在的な危険性を見落とすことで可能となる没入に他ならない。リスクを語る論客たちは、より潜在的な危険性を盲点として等閑視するからこそ、より顕在的なリスクの対策に没入することができるのだ。それ故「問題発見」とは、発見可能な問題の発見に終始することである。そして「問題解決」とは、常に問題解決されるべき問題解決に過ぎない。かくしてリスク・コミュニケーションは、循環的に連続していく訳だ。「こうして問題が問題を派生させるという事態が「原理的に」解決されるものではなく、進化によって解消されるしかないことは、明らかである(31)

 「デザイン」が機能的な単純化を促すのだとしたら、「デザイン」された「デザイン」はより効果的に機能する。効果的な「デザイン」として観察される「デザイン」は、確かに生き残る。生き残った「デザイン」は、繰り返し利用されるだろう。だがそれは、ある特定の「デザイン」が没入の対象として顕在化することで、「デザイン」に伴う潜在的な危険性が等閑視されていることを意味する。さもなければ、リスキーな「デザイン」を選択する理由が無くなる。没入を方向付けるには、まずその方向性に没入しなければならない。

 しかし、無理解のまま利用することで前進していくことこそが「デザイン」の醍醐味なのであった。それ故、「デザイン」された「デザイン」を利用する観察者は、通常「デザイン」に伴う潜在的な危険性の全てを理解する必要は無い。理解する必要があると主張するならば、直ぐにまた終わりなき脱魔術化の追求という魔術的な束縛に駆られることになる。「こうして、デザイン理論は、サイバネティクスになる」(32) という訳だ。

注釈

  1.  山本貴光 (著)、吉川浩満 (著)『心脳問題―「脳の世紀」を生き抜く』朝日出版社 (2004)、p197を参照。
  2.  ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル (著)、藤野渉 (訳)、赤沢正敏 (訳)『法の哲学(1)』中央公論新社 (2001)を参照。
  3.  ドナルド・A・ノーマン (著)、野島久雄 (訳)『誰のためのデザイン?―認知科学者のデザイン原論』新曜社 (1990)、p86を参照。
  4.  ノルベルト・ボルツ(著)、村上淳一(訳)『世界コミュニケーション』東京大学出版会(2002)、pp215-216を参照。
  5.  レイ・カーツワイル(著)、井上健(訳)『ポスト・ヒューマン誕生 コンピューターが人類の知性を超えるとき』NHK出版(2007)を参照。
  6.  ウルリッヒ・ベック (著)、東廉 (訳)、伊藤美登里 (訳)『危険社会―新しい近代への道』法政大学出版局 (1998)を参照。
  7.  ノルベルト・ボルツ(著)、村上淳一(訳)『世界コミュニケーション』東京大学出版会(2002)、p223を参照。
  8.  ノルベルト・ボルツ(著)、村上淳一(訳)『世界コミュニケーション』東京大学出版会(2002)、p223を参照。

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