これまでの考察を前提にすれば、「動物」としての<自分>に抵抗する「人間」が現れるかもしれない。しかし、我々に脱動物化は不可能である。我々が脱動物化に着手した場合、自己言及的パラドクスに陥る。脱動物化に成功するのは一時的であり、直ぐに動物化を招き入れることになる。
この状況を端的に示すのが、ネオ・ダーウィニストのリチャード・ドーキンスが提唱した「ミーム」(25)という概念である。ミームは、遺伝子のアナロジーとして提唱された。双方は、共に利己的な自己複製子として進化していく。遺伝子が身体的な進化に寄与する一方で、ミームは人格や文化における進化に寄与する。
ネオ・ダーウィニストたちは、とりわけミームと遺伝子の機能的な優劣に言及している。リチャード・ブロディが提起するように、「私たちは自然淘汰に身をまかせ、幸福とか満足、あるいは精神といったものとは無関係にランダムな進化を行ってゆくのだろうか。それとも自分たちの進化の手綱を引き締め、私たちにとって都合の良い方向を選んでゆくのだろうか」(26)。既に述べた通り、「人間」としての<私>は、「動物」としての<自分>が選択的に縮減した複雑性を事後的に観察している。それ故、「人間」的な「欲望」は「動物」的な「欲求」に依拠している。「しかし、DNAは、永遠にその専制支配権を確保できるとは限らない。(中略)遺伝子を単位とする古い進化は、脳を作り出すことによって、最初のミームの発生しうる「スープ」を提供した。ついで自己複製能力のあるミームが登場すると、彼らは、古いタイプの進化よりはるかに速やかな、独自のタイプの進化を開始したのである」(27)。
ネオ・ダーウィニストたちが遺伝子に対するミームの独立性を主張することには、意味がある。それは、人格や文化が模倣を通じて進化していくと解釈することが可能だからだ。スーザン・ブラックモアが述べたように、「私たち人類は、その模倣の能力ゆえに、ミームたちが拡がるためにまさに必要とする身体的な「宿主」となったのだ。これが「ミームの視点」から見た世界の姿である」(28)。したがって、ブロディが主張するように、「すぐれたミーム、あるいはうまくできたミームというとき、それは人々の間を容易に拡散していく考えや信念を指している」(29)。ネオ・ダーウィニストたちは、遺伝子同様にミームもまた淘汰に晒されていると考えている。「あるミームがある人間の脳の注目を独占しているとすれば、「ライバル」のミームが犠牲になっているに違いないのである」(30)。
上記の考察を前提にすれば、ミームが淘汰から生き延びるためには、自己複製に成功すれば良いということになる。ミームの生存が遺伝子の生存に準拠することに、必然性は無い。「動物」的な「欲求」は遺伝子によって規定されているとすれば、「人間」的な「欲望」はミームによって規定されている。したがって、「人間」的な「欲望」が「動物」的な「欲求」の方向付けに従事する必然性も無くなる。
しかし、ミーム学に統一見解は無い(31)。たとえばドーキンスは、ミームの生存が遺伝子の生存に依存するとは考えていない。ミームは、電子メディアや言語を媒介とすることで複製されることが可能であると考えているのだ。すなわち、「ミーム淘汰における成功の究極的基準が遺伝子の生存であるというわけではない」(32)。一方で、進化論的心理学に依拠するブロディは、ミームの生存が遺伝子の生存に依存する可能性を示唆している。「私たちが行う深い思考や私たちが作り上げるすばらしい知的モデルは、すべて生存と生殖に対するこれらの脳の高等な機能の上にクラッジ的に構築されたものである。いっぽう、生存と生殖に対するこれらの脳の高等な機能は、生存と生殖に対する原始的機能(怒り、恐怖、空腹、性欲)の上にクラッジ的に構築されたものである。」(33)。
しかし、いずれの見解にせよ、自己言及的パラドクスは伴う。ミームの生存が遺伝子の生存に依拠しないという見解を打ち出したとしても、死人に口は無い。遺伝子の乗り物(34)としての身体が死滅した場合、もはや遺伝子の複製と同時にミームの複製も不可能となるのだ。それ故、「ミームの生存が遺伝子の生存に依拠しないという見解が打ち出されたこと」を指し示す<ネオ・ダーウィニズムの文化>も、複製不可能となる。
逆にミームの生存が遺伝子の生存に依拠するという見解を打ち出したとしても、同じく自己言及的パラドクスに陥る。たとえミームの生存が遺伝子の生存に依拠するということが学術的な真理として形式化できたとしても、「ミームの生存が遺伝子の生存に依拠しないという見解を打ち出されたこと」を指し示す<ネオ・ダーウィニズムの文化>を複製することは可能なのだ。この<ネオ・ダーウィニズムの文化>が複製された時点では、もはや「ミームの生存が遺伝子の生存に依拠と言う見解が打ち出されたこと」に関する<ネオ・ダーウィニズムの文化>は、潜在化しているのである。
したがって、いずれの見解にせよ、自己言及的パラドクスに陥る可能性を持つ。一方が顕在化すれば、他方は潜在化する。両者は「地」と「図」の関係に他ならない。我々は、「人間」的な「欲望」を重視することも可能であり、「動物」的な「欲求」を重視することも可能である。ただし、「動物」的な「欲求」を超克した「人間」的な「欲望」を形成しようとしても、その「欲望」の形成が既に「欲求」に依拠した上での「欲望」である可能性から、我々は脱却することはできない。一方で、仮に「動物」的な「欲求」の超克を諦めたとしても、諦めることができるのは自由意思を持つ「人間」としての<私>である。したがって、我々は「人間」的な「欲望」を抹消することはできない。得てして我々は、「動物」としての<自分>と「人間」としての<私>が重ね合わせられたパラドキシカルな存在なのである。