「動物」としての<自分>が「欲求」による方向付けに没入する一方で、ポスト・ヒューマンは「動物」としての<自分>を家畜として「デザイン」する。ここで言う「家畜」とは、聡明な人類学者フォン・アイクシュテットらが提起した「自己家畜化」に基づく概念だ(20)。ただし、「人間」としての<私>が「動物」としての<自分>を飼育している訳ではない。<私>は、常に<自分>の複雑性縮減に依存するしかないからだ。もはや現代社会において、「人間」が「動物」を上回ることは無くなったのである。
「動物」としての<自分>の飼育員として召喚されるのは、「デザイン」を遂行するポスト・ヒューマンである。ただし、ポスト・ヒューマンが「デザイン」するのは、「動物」としての<自分>だ。家畜化するのは、自分自身なのだ。この傾向は、遺伝子技術やブレイン・マシン・インターフェイスをはじめとするトランス・ヒューマニズム的な学術と技術の発展を観れば明らかである。だが、これらの学術と技術が発展する以前に、既に「自己家畜化」は進行していた。ポスト・フォーディズム的な生産体制は、人格の是非が問われない分散的で流動的な社会システムを構成している(21)。ボルツが述べたように、仮想現実による脱空間化は、逆説的にも<意味の新大陸としての身体>を顕在化させ、アガンベン流の「剥き出しの生」を助長した。今日、化粧や公衆衛生に過敏に反応する「動物」や、薬物やサイバーセックスに酔い痴れる「動物」が発見されるのは、「自己家畜化」の軌跡によるものである。
したがって、ポスト・ヒューマンは、「デザイン」する「人間」であると同時に、「デザイン」の方向性に没入する「動物」でもある。ツァラトゥストラならば、これを<超人>と呼ぶだろう(22)。
確かに、ツァラトゥストラは述べている。「わたしは、あなた方に超人を教えよう。人間とは超克されるべき何物かである。あなた方は、人間を超克するために何をなしたか?」(23)私は、作為的に応答しよう。「デザイン」を遂行せず、ただ既成の「デザイン」の方向性に没入するだけの存在は、単なる「動物」でしかない。
ツァラトゥストラは更に言った。「あなた方が体験しうる最も偉大なものとは何か?それは、大いなる軽蔑が生まれる時だ」(24)。私も更に応答しよう。つまり、我々人間が人間自身の弱点を発見し、それを超克しようと決意した時こそが、偉大なのだ。これは「自己家畜化」としての「デザイン」の偉大さでもある。
ツァラトゥストラは更に言う。
「私は彼らに、最も軽蔑すべきもののことを語ってやろう。して、それは末期的人間である。」(フリードリッヒ・ニーチェ、吉沢伝三郎、『ニーチェ全集〈9〉ツァラトゥストラ 上』筑摩書房、1993、p27)
「あわれ!最早おのれ自身を軽蔑することのできない、最も軽蔑すべき人間の時が来る。
いいか!わたしはあなた方に、末期的人間を描いて見せよう。
<<愛とは何か?創造とは何か?憧憬とは何か?星とは何か?>>――末期的人間はこう尋ねて目をしばたたく。」(フリードリッヒ・ニーチェ、吉沢伝三郎、『ニーチェ全集〈9〉ツァラトゥストラ 上』筑摩書房、1993、p27)
これについても、私は作為的に応答しよう。既成の魔術的「デザイン」が指し示す方向性に没入するだけであり、自ら魔術を利用しようとしない<単なる「動物」たち>は、もはや用済みだ。
それでもツァラトゥストラは、そう簡単には諦めない。
「おのれの存在を維持するために、人間がはじめて事物の中へもろもろの価値を差し入れたのだ。人間がはじめて事物に意義を、人間的意義を創造したのだ!だからこそ、彼はおのれを「人間」と、つまり評価する者と名付けている。
評価とは、すなわち創造。いいか、君たち、創造する者たちよ!評価こそが、すべて評価されたものの真価であり、それを際立たせる飾りなのだ。
評価によって、はじめて価値は存在する。およそ評価することがなければ、存在の胡桃はうつろであろう。いいか君たち、創造する者たちよ!」(フリードリッヒ・ニーチェ、吉沢伝三郎、『ニーチェ全集〈9〉ツァラトゥストラ 上』筑摩書房、1993、p89)
単純であり、便宜的であり、無知でも構わず、理解する必要が無い、虚構を前提に成り立つ「デザイン指向」は、自ら利用するからこそ効果的に機能するのである。我々は無論「動物」に過ぎないのだが、悲観視する必要は無い。「動物」でも、「動物」を家畜化することは可能だ。それは、他者性の機能的等価物として利用できる技術が可能にしてくれる。我々は、魔術化した技術が構成する「デザイン」が指し示す方向性に没入すると同時に、自ら「デザイン」を利用することで魔術的な方向付けにコミットしていかなければならない。さもなければ、ポスト・ヒューマンの召喚は頓挫に終わるだろう。