ポスト・ヒューマンの魔術師

「自称人間」の時代からポスト・ヒューマンの時代へ。

フランシス・フクヤマの「欲望」

  1. 動物化させるポスト・ヒューマン:はじめに
  2. 他者を信頼することの負担
  3. 人格の意味と身体の意味
  4. 「欲求」する「動物」としての<自分>
  5. フランシス・フクヤマの「欲望」
  6. 動物的な、あまりに動物的な。
  7. 脱動物化という動物化
  8. 動物化させるポスト・ヒューマン:結論

「動物」的な「欲望」の「デザイン」

 以上のことを我々の議論に結び付けるならば、次のようになる。まず、環境管理型社会における魔術的な技術が、「欲求」を「デザイン」することで、「動物」としての<自分>が没入する方向性を指し示す。次に、「動物」としての<自分>が没入することで選択的に縮減された複雑性を前提に、「人間」としての<私>は、「欲望」を「デザイン」する。すなわち、「動物」としての<自分>が没入している方向性に依拠しつつ、「人間」としての<私>が没入する方向性を指し示すのだ。しかし一方で、「動物」としての<自分>は、「人間」としての<私>よりも早い段階で没入感を獲得している。したがって、「欲求」の「デザイン」に「実行可能性」が生じている限り、「欲望」の「デザイン」が必要となることは無い。<私>の出番は、もはやその「実行可能性」に葛藤が帯びた場合に限定されるのである。

 「人間」としての<私>は、葛藤が起きない限り、自覚の有無を問わず「動物」としての<自分>に従う。数多の情報や選択肢を吟味するのは、「動物」としての<自分>だ。「人間」としての<私>は、「動物」的にフィルタリングされたごく少数の情報や選択肢のみを事後的に吟味すれば良い。環境管理型社会では、複雑高度な事物について考える必要は無い。意識という「ユーザーイリュージョン」は、技術から無意識を介して添付される機能的な単純性のみに反応すれば良い。葛藤が生じれば、技術にクレームを発すれば良い。環境管理型社会の技術は、単純であり、便宜的であり、無知でも構わず、理解する必要が無い、虚構を前提に成り立つ「デザイン指向」を体現しているのだ。

 したがって環境管理型社会とは、構造的な複雑性が嫌われ、機能的な単純性が好かれる<現代社会ならでは>の政策ポリシーに他ならない。我々は、「動物」としての<自分>の「剥き出しの生」を重視することで、容易く「欲求」の方向性へと没入することが可能になるのだ。とはいえ、ポジティヴィティとネガティヴィティは「地」と「図」の関係だ。たとえばフランシス・フクヤマならば、それは『人間の終わり』(16)であると嘆くところだろう。フクヤマの見解では、抗鬱剤プロザックは「欲望」の達成を脳科学的に代価すると言う。「欲望」の達成には、他者が必要なのであった。したがって、プロザックという学術的な構成物と他者という存在は、機能的に代価可能な等価物ということになる。フクヤマの見解によれば、この代価可能性が人間性の本質を脅かすという訳だ。

フランシス・フクヤマの素朴さ

 しかし逆説的ではあるが、フクヤマのこの考察は、歴代のヒューマニストたちが自ら墓穴を掘り、深き墓穴で嘆き苦しんでいる光景をわかり易く描写してくれた。フクヤマの考察が言い表しているのは、「欲望」達成における他者性の代価可能性が人間性を棄却するということである。つまり、他者と手と手を取り合い「欲望」を達成していくことで、人間は人間的になるという訳だ。しかし、仮にこうした弁証法で人間的な人間が顕在化するとするならば、それは非人間的な人間の潜在化を後ろ盾としている。両者は「地」と「図」の関係だ。したがって、仮に他者と協同的に「欲望」を達成できる人間的な人間が存在するとすれば、その背後には他者と協働できない非人間的な人間が存在するということになる。フクヤマの綺麗事を真に受けるとなると、ヒューマニストが人間性の本質を保持するためには、<手を繋いで貰えなかった非人間的な人間>を無視する必要があるということになる。

 これは包摂と排除の逆説だ。<手を繋いだ人間的な人間>を受け入れるには、<手を繋いで貰えなかった非人間的な人間>を排除する必要がある。とはいえ、非人間的な人間も、元を辿れば人間だ。同じ人間を排除することが「人間的な人間の本質」だというのならば、歴代の人間中心主義者たちは、悪い空気を吸うと死んでしまう「KY信者」(17)と、同レベルだろう。フクヤマは「これが倫理的なだけでなく政治的な問題であるということを忘れてはならない」(18)と釘を刺す訳だが、無論その政治的と言うに相応しい見解を訊いて見たいところだ。

誰が「人間」なのか?

 環境管理型社会が支配的となった現代において、政治を実践するのは「動物」を管理する「人間」である。しかし、このように述べただけでは、「動物」と「人間」を区別するのは誰なのかという問題に直面する。たとえば人間中心主義者の「人間」が、この区別を付与したならば、直ぐに非人間的な人間の排除に結び付くだろう。しかし、確かなことが一つだけある。「動物」ではない「人間」は存在しない。「人間」もまた「動物」なのだ。これは、システム理論的に言えば「形式の形式への再参入」という逆説的な思考方法で定義することができる。すなわち、「動物」と「人間」という区別が、「動物」の内部で再構成されているということだ。

 したがって、「動物」を政治的に管理するのは、「動物」である。管理する「動物」は、「欲望」や自由意思を魔術的に利用することで、「人間」として振舞い続ける。「人間」という出来レースに参加しなければ、「動物」を管理する資格を得られないからだ。しかし実際は、管理する「人間」も「欲求」を重視する「動物」に過ぎない。それ故、管理する「動物」としての「人間」は、自覚の有無を問わず、他の「人間」によって管理されている。「人間」は、管理する「動物」であると同時に管理される「動物」である。パラドキシカルな立場なのだ。だからこそ「人間」たちは、非人間的な「動物」を指し示そうとすれば、直ちに自己言及的パラドクスに陥るのである。

 誤解しないで貰いたい。技術があるからこそ人間性の本質が堕落するのではない。人間本位なヒューマニズムは、既に自滅しているのだ。環境管理型社会の技術は、あくまでその<止めを刺した>だけである。非人間的な人間は、喪失することなく、常に排除され続けた。「なぜなら、「人間の」哲学であることを強く謳うものは、その本質規定に従わない具体的個人すべてに「人でなし」というレッテルを貼るしかないからだ」(19)。人間中心主義は、それ自体が非人間的イデオロギーと化すことで、自己言及的パラドクスに晒されたのである。

 環境管理型社会の魔術的な技術は、ヒューマニストたちが信仰してきた人間性の妄想を、いとも簡単に砕いた。技術と他者性は機能的等価物である。他者への信頼は、システムへの信頼へと切り替えられた。「欲望の弁証法」は、既にその「実行可能性」を喪失している。人間本位な「欲望」の方向性は、もはや「動物」的な「欲求」の方向付けに取って代わった。複雑な事柄を毛嫌い、単純な事柄を求める我々は、この状況に有り難く思うことだろう。既に述べたように、環境管理型社会の技術は、単純であり、便宜的であり、無知でも構わず、理解する必要が無い、虚構を前提に成り立つ「デザイン指向」を体現しているのだ。

注釈

  1.  フランシス・フクヤマ(著)、鈴木淑美(訳)『人間の終わり―バイオテクノロジーはなぜ危険か』ダイヤモンド社(2002)を参照。
  2.  「KY」とは、「空気、読めない」の俗称である。主に「動物」的な不快感を抱いた若者たちが、その不快感を排斥するために使用する用語である。つまり若者たちは、悪い空気を排除することでしか、良い空気を形成できないのだ。「空気とは何か」については、明確な定義はされていない。流動的に変容する空気を臨機応変に読み取ることが世渡り上手なのだという美学もあるのかもしれないが、馬鹿の一つ覚えのように「KY」を連呼する行為それ自体が既に「空気、読めない」状態に転じてしまうという自己言及的なパラドクスも伴う。それどころか、不都合な場面に遭遇した若者が、自分の能力ではその場面に対応できない場合において、その不都合な状況から眼を逸らすために利用されるケースも想定できるだろう。「KY」と連呼する若者は、空気に依存しなければ何もできないのである。空気に依存せずとも能力を発揮できる若者ならば、「KY」とは言わずに、その空気を戦略的に換えていこうとするはずだ。「KY」のような若者の言葉に関しては、BLOCKBUSTER+現代略語研究会 (著)『KY語辞典』白夜書房 (2008)を参照されたい。
  3.  フランシス・フクヤマ(著)、鈴木淑美(訳)『人間の終わり―バイオテクノロジーはなぜ危険か』ダイヤモンド社(2002)、p21を参照。
  4.  ノルベルト・ボルツ、村上淳一、『世界コミュニケーション』、2002、p259を参照。

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