したがって、身体に対する我々の意識的な観察は、常に身体の機能に比して事後的に遂行される。周知のように、ベンジャミン・リベットの研究報告は、我々の意識的経験が発現するためには0.5秒の脳活動が必要であるということを指し示している(8)。今や哲学者が提唱した「自由意思」という概念は、虚構に過ぎない。意識は、閾下レベルによって限定された自由を享受することで、表層を戯れているのである。
日常において、意識が無意識の業績に気付くことは稀である。ジュリアン・ジェインズが述べたように、「意識が心の営みに占める割合は、私たちが意識しているよりはるかに小さい。というのも、私たちは意識していないものを意識することはできないからだ」(9)。このことに関連して、トール・ノーレットランダーシュは、意識が無意識的な現象を認めるためには、意識と無意識との間に葛藤が生じることが必要条件となると考えた(10)。しかし、仮にそうだとすれば、意識が上機嫌な場合には、それが意識的な経験なのか無意識的な現象なのかを区別する手立てが無いということになる。葛藤があるからこそ、区別できるのだ。それ故、ノーレットランダーシュは次のような疑問に直面するのである。「人間は不快なときにしか自由意思を持たないのだろうか。それとも、気分のいいときにも自由意思はあるのだろうか。そうだとしたら、それは誰の自由意思なのか」(11)。
このパラドクスに対して、ノーレットランダーシュは、自由意思を持つ<私>と身体レベルの<自分>を区別することで対応した。そして、<私>は<自分>が構成した虚構的な幻想だと言う。すなわち「<私>の経験では、行動するのは<私>ということになる。感じるのも<私>、考えるのも<私>だ。だが、実際それをしているのは<自分>だ。私は、私自身の、私にとってのユーザーイリュージョンなのだ」(12)。システム理論家ならば無論、この回答を<自己言及を遂行する観察者>と<自己言及の対象となる観察者>の差異から導き出せる訳だが、この見解は多方面の研究領域へ接続することが可能だ。マイケル・ポラニーならば、このことを<暗黙知>(13)と結び付けて語るだろう。ジェイムズ・ギブソンならば、「アフォーダンス」(14)を引き合いに出すはずだ。しかし、環境管理型社会における「剥き出しの生」との兼ね合いを踏まえるならば、ここでは「動物」という概念に着目すべきであろう。
「動物」とは、ヘーゲリアンのアレクサンドル・コジェーヴから東浩紀へと語り継がれた概念である(14)。「動物」は、「欲求」を持つ。たとえば空腹感や睡眠欲など、欠乏から満足への回路で「欲求」は成り立つ。一方、「動物」と対為す概念である「人間」は、「欲求」のみならず「欲望」も併せ持つ。「欲求」における欠乏から満足への回路が閉鎖的に自己完結できることに対して、「欲望」は他者を必要とする。
東が現代社会の「動物化」を指摘する背景には、ジョージ・リッツァが提唱した社会の「マクドナルド化」(15)が挙げられる。たとえばファーストフード店に設置されている硬質な椅子の効果については、あまりにも有名だ。座り心地の悪い椅子が客の回転率を上げるための「デザイン」として機能しているのである。座り心地の悪い椅子に座るユーザーは、その椅子が硬いが故に早く立ち去ろうと意識している訳ではない。あくまで立ち上がろうとするのは、<私>ではなく<自分>なのだ。空腹という「欲求」を果たした<私>は、もはやその店に留まる必要は無い。それ故、<自分>が椅子から立ち上がったとしても、<私>は文句を言わずに従ってしまうのである。
我々が意識する自由意思は、他の動物には無い特徴と言える。一方、無意識的な感覚器官は他の動物にも観られる。それ故、この「人間」と「動物」の区別は、<私>と<自分>の区別に対応するのだ。したがって、「動物」的な「欲求」は、「人間」的な欲望を上回る可能性が高い。ファーストフード店でテーブル越しに長話を弾ませる<私>たちの「欲望」は、椅子から立ち上がろうとする<自分>たちの「欲求」を超えることができないのだ。
環境管理型社会の制御対象となるのは、まさにこの「動物」としての<自分>である。現代社会は、この「動物」の「欲求」にスポットライトを当てることで、「剥き出しの生」を顕在化させている。<私>ではなく<自分>に語り掛けることで、<私>の自由意思の如何を問わず、社会秩序の成立に好都合な操作を施すことが可能になったのだ。