ポスト・ヒューマンの魔術師

「自称人間」の時代からポスト・ヒューマンの時代へ。

人格の意味と身体の意味

  1. 動物化させるポスト・ヒューマン:はじめに
  2. 他者を信頼することの負担
  3. 人格の意味と身体の意味
  4. 「欲求」する「動物」としての<自分>
  5. フランシス・フクヤマの「欲望」
  6. 動物的な、あまりに動物的な。
  7. 脱動物化という動物化
  8. 動物化させるポスト・ヒューマン:結論

人格の潜在化と身体の顕在化

 既に述べたように、魔術的な技術を利用する環境管理型社会は、他者信頼の負担を免除してくれる。技術を駆使した社会的システムを信頼すれば事足りるのだ。環境管理型社会では、信頼できるか否かという人格の問題は、潜在化しているのである。とはいえ、顕在的な形式と潜在的なメディアは、「地」と「図」の関係なのであった。したがって、人格の問題が潜在化しているということは、機能的に代価可能な別様の形式が顕在化しているということになる。

 ルーマンが明らかにしたように、人格と身体は「地」と「図」の関係だ(4)。人格が顕在的に形式化されれば、身体は潜在的にメディア化される。人格とは、コミュニケーションの担い手か否かを区別する形式である。コミュニケーションの担い手として観察されない者は、身体として位置付けされる。たとえば、マスメディアや電子メディアの発達を背景にすれば明らかなように、コミュニケーションは脱空間化することが可能だ。コミュニケーションの担い手が、その空間に位置する必然性は無い。身体が可視的な同一空間に位置することなく潜在化したとしても、コミュニケーションの担い手としてマークされることが可能なのである。

 しかし環境管理型社会では、身体はむしろ顕在化している。ボルツと共に、「身体は最近発見された<意味の新大陸>だと言うことができよう」(5)。ジョルジョ・アガンベンの言葉を借用するなら、「剥き出しの生」(6)として顕在化した身体が、観察されることになるのである。環境管理型社会が制御すべきは、もはや人格ではなく、身体なのだ。

 身体の顕在化は、直ぐに形式としての身体というアイロニーを構成する。<意味の新大陸>として形式化された身体は、それ自体で区別を付与することが可能になるのだ。したがって身体を観察する我々は、身体が構成した差異をセカンドオーダー・サイバネティクスとして認識することになる。それ故、純然たる身体の認識はあり得ない。あるのは「純然である」という観察のフィードバックを介した、再帰的な認識だ。身体を認識する我々は、あくまで身体が既に複雑性を選択的に縮減していることを前提にした上で、複雑性を選択的に縮減するしかないのである。だからこそ身体の感覚器官に言及する下條信輔は、「視知覚情報処理の大部分は、われわれの意識にとってアクセス不能であり、われわれはたかだかその処理の結果(=出力)を知覚現象として経験するにすぎない」(7)と述べたのである。

注釈

  1.  すなわち、顕在的な形式としての人格は、その内部に<顕在的な形式としての人格>と<潜在的なメディアとしての身体>を発現させている。つまり、我々が日常的に実施している社会的コミュニケーションは、潜在的な身体を後ろ盾とすることで顕在化した形式に他ならないのである。

     身体に言及する生物学者は、学問的コミュニケーションを形式化する学問システムに包摂されている。だが、形式としてのコミュニケーションの<形式としてのコミュニケーション>への再参入を背景とする限り、一旦コミュニケーションの担い手としてマークされた者は、事後において少なからず、コミュニケーションの担い手か否かという区別における言及対象となる。たとえば、コミュニケーション・パートナーの女性が八方美人であると知れば、我々は少なからず事後のコミュニケーションにおいて相手の人格を問うだろう。つまり、形式としての人格は、<形式としての人格>への再参入を引き起こすのだ。このことについては、ニクラス・ルーマン(著)、村上淳一(訳)『ポストヒューマンの人間論―[後期ルーマン論集]』東京大学出版局(2007)、pp117-135を参照。

  2. ノルベルト・ボルツ(著)、村上淳一(訳)『世界コミュニケーション』東京大学出版会(2002)、p247を参照。
  3.  周知のように、アガンベンは近代の<生政治>を熟考している。人格は考慮されず、あくまで身体レベルでの統制こそが機能する権力なのだ。アガンベンは、その究極的な一例として、ナチスの強制収容所を挙げている。これについては、ジョルジョ・アガンベン(著)、高桑和巳(訳)『ホモ・サケル―主権権力と剥き出しの生』以文者(2003)を参照。
  4.  下條 信輔 (著)『サブリミナル・マインド 潜在的人間観のゆくえ』中央公論社 (1996)、p169を参照。

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