ポスト・ヒューマンの魔術師

「自称人間」の時代からポスト・ヒューマンの時代へ。

他者を信頼することの負担

  1. 動物化させるポスト・ヒューマン:はじめに
  2. 他者を信頼することの負担
  3. 人格の意味と身体の意味
  4. 「欲求」する「動物」としての<自分>
  5. フランシス・フクヤマの「欲望」
  6. 動物的な、あまりに動物的な。
  7. 脱動物化という動物化
  8. 動物化させるポスト・ヒューマン:結論

規律訓練型社会から環境管理型社会へ

 現代社会は、規律訓練型社会(1)から環境管理型社会(2)へと移行した。前近代的な権力は、命令と服従の形式から構成される君主型の権力であった。しかし前期近代になると、社会の構成員が規律訓練的に主体化されることで、自発的に権力に服従する形式へと移り変わった。とりわけ教育システムや組織システムでは、構成員の内面を主体化させることで、自発的に権力に迎合させていた。社会秩序は、物理的な拘束以外にも、構成員の主体性によって支えられていたのである。

 規律訓練型社会では、構成員が社会に好都合な行為を主体的に遂行することが求められていた。しかし一方で、環境管理型社会は、内面的な主体性や自発性は加味されない。あくまで外面的な技術的データベースのみで事足りてしまう。この典型的な例が、バイオメトリクスやリモートセンシングによる監視技術だ。これらの技術を実装したアクセス・コントロールならば、指定された人間のみの入退室を許可することで、行為を制御することが可能になる。内部の構成員のみを入室可能として設定しておけば、部外者を排除することも可能だ。こうした環境管理において、構成員の内面性は重視されない。

人間への信頼からシステムへの信頼へ

 規律訓練型社会から環境管理型社会への移行は、複雑性の選択的な縮減に基づいていた。規律訓練型社会は、信頼に準拠しなければ機能しない。しかし信頼は、常に別様にもあり得る人為的構成物だ。観察者は、別の観察者が抱く自己信頼を信頼する。自己信頼を抱かない観察者を信頼することはできない。自己自身の信頼性を否定する観察者を信頼しようとすれば、我々は「嘘吐きのパラドクス」に直面する。ある観察者を信頼するには、その観察者が没入している自己信頼と同一の方向性へ没入する必要がある訳だ。とはいえ、信頼の元を辿れば、それは自己言及的に構成された虚構的な自己信頼に過ぎない。我々は、現実的には信頼すべきではない相手でも、虚構的に信頼してしまうことがある。これについては、振り込め詐欺の被害者たちや、国民年金を騙し盗られた大多数の<愛国者>が教えてくれることだ。

 したがって、信頼形成は、高度に複雑である。信頼するのは現実的ではない。もはや<信頼できないということ>だけが信頼される。より厳密に言えば、<他者を信頼できないということ>だけを信頼する自己のみが、虚構的に信頼されるのである。そこで要請されるのが、信頼に伴う構造的な複雑性を機能的に単純化する魔術だ。それ故に社会は、信頼を信頼するよりも、技術を信頼した。繰り返すように、「もはや根拠づける必要なしに円滑に遂行されるということが、技術的仕組みの魅力に他ならない。討議するまでもないのだ。技術とは、さまざまの原因と結果が織りなす複雑性をうまく縮減するものである」(3)かくして現代社会は、魔術的な技術を駆使した環境管理型社会へと突入したのである。

注釈

  1.  ミシェル・フーコー(著)、田村俶(訳)『監獄の誕生―監視と処罰』新潮社(1977)を参照。
  2.  「環境管理型社会」は東浩紀の言葉だが、そのバックグラウンドにはドゥルーズの影響がある。ドゥルーズは、フーコーの業績を引き継ぎ、規律訓練型社会から管理社会への移行を指摘したのである。これについては、ジル・ドゥルーズ(著)、宮林寛(訳)『記号と事件―1972-1990年の対話』河出書房新社(1996)及び、東浩紀(著)、大澤真幸(著)『自由を考える―9・11以降の現代思想』NHKブックス(2003)を参照。
  3.  ノルベルト・ボルツ(著)、村上淳一(訳)『意味に餓える社会』東京大学出版会(1998)、p53を参照。

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