ポスト・ヒューマンの魔術師

「自称人間」の時代からポスト・ヒューマンの時代へ。

展望:参入離脱可能な「知のデザイン」

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展望

 先述したように、<グーテンベルク銀河系>におけるパラドクスは、ハイパーテクストが可能とする「間テクスト性」によって脱パラドクス化できる。しかし、当のハイパーテクストは、学術システムやマスメディア・システムをはじめとした権威ある情報源に依存したままである。したがって、ハイパーテクストが書物の陥穽を埋め合わせる一方で、書物はハイパーテクストの陥穽を埋め合わせている

 これを相互依存関係として記述することもできるだろう。しかし、それだけでは不十分だ。この状態は、読者を無限後退のパラドクスへと導く。どれほどアンカーリンクをクリックしたところで、ユーザーは、真理には辿り着けない。最終的に指し示されるのは、そのウェブページが参照する活字出版の書物である。「ウィキペディア日本語版」の落ち度は、まさにそこにあったのだ。

 しかし、ルーマンの失敗を省みる限り、既に<グーテンベルク銀河系>における書物の形式では、世界の複雑性を記述することは不可能となっている。我々はもはや、「記述できなかった盲目的な側面」を盲目的に等閑視することでしか、複雑な現象に関する記述に挑戦することはできないのである。

 以上の考察を前提とする以上、私は情報の提供や知識の共有といった名目でウェブページを運営することはできない。もしウェブページ上で情報提供や知識構成を目指すなどと大言壮語を吐くならば、読者をパラドクスに巻き込むことになる。つまり、無限に続く堂々巡りに巻き込んでしまうのだ。

 この無限に続く堂々巡りというパラドクスを脱パラドクス化するためには、無限後退に対して参入離脱可能なスタンスを設定しておかなければならない。つまり、「知の遡及」と「知の断念」の双方を等価に選択可能にする必要があるのだ。記述する私にせよ、閲覧する読者にせよ、自由にこの選択が可能になるべく、対応しなければならない。

 こうしたスタンスに立つ限り、我々は「知」の堂々巡りに対して参入離脱可能な立場を維持することを強調しなければならない。こうしたスタンスに立つ観察者は、その堂々巡りが自身にとって都合の良い出来事であれば、それに「作為的」にコミットしていくだろう。逆に不都合な堂々巡りならば、直ぐに「作為的」に離脱することだろう。

 つまり我々に必要なのは、真理や学知や合理性の追求を「作為的」に取り止めることを、選択可能にすることである「これがなかなか理解できないのは、「作為的」という概念が侮辱的・軽視的な意味で用いられるからだ。いったいなぜ、作為的で悪いのだろう?作為的というのは、人間によって作られたというだけのことではないか」(1)。機能等価主義的に言い換えれば、我々にとって重要となるのは、「作為的」な教義的機能である。「人間が自分の宗教の教義のおかげでどんなに大きな負担軽減を体験するか、容易に判るであろう。教義は、解答できない問いの、無限に続く堂々めぐりを防止してくれるのだ」(2)。

 したがって、本レポートが指し示すのは、「トランス・ヒューマニズム」や「ポスト・ヒューマン」を巡る<教義的な真理>となるだろう。一連のレポートでも、私はパラドクス化と脱パラドクス化の循環を辿ることで、パラドクスの展開操作を継続していくことになる。したがって、本レポートで提起している脱パラドクス化の過程も、いずれはパラドクス化する運命にある。盲点無き観察はあり得ないのだから、無論私の観察にも盲点は生じる。しかしながら、よりよく観察する機会が全く無い訳ではない。「トランス・ヒューマニズム」や「ポスト・ヒューマニティ」が技術的かつ思想的に十分納得のいく形式で実現される日は当分来ないとはいえ、「理論ならもう計器飛行を始めてもよい」(3) 。「トランス・ヒューマニズム」や「ポスト・ヒューマン」が無知な我々に相性の良い存在であることを示す理論は、始まったばかりなのだ

注釈

  1. ノルベルト・ボルツ(著)、村上淳一(訳)『意味に餓える社会』東京大学出版会(1998)、p273を参照。
  2.  ノルベルト・ボルツ(著)、村上淳一(訳)『意味に餓える社会』東京大学出版会(1998)、p144を参照。
  3. ノルベルト・ボルツ(著)、識名章喜(訳)、足立典子(訳)『グーテンベルク銀河系の終焉』法政大学出版局(1999)、p251を参照。

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