人間は、常染色体と性染色体を持っている。常染色体は22種類あり、2セットずつ構成されている。性染色体は、XとYのセットで考えられている。男性の場合はXとYを持ち、女性の場合はXとXを持つ。この染色体に含まれている約3万個の遺伝子情報を、特にゲノムと呼ぶ。1991年から2003年まで実施された「ヒトゲノム解析計画」に象徴されるように、ゲノムの塩基配列を解読すれば、人間における生命システムのコードの観察が可能になる。
遺伝子技術は、生命システムのコードを外部から書き換えることを可能にする。これは無論、オートポイエティック・システムに対する攪乱ではあるが、同時にそれは構造的ドリフトを促す破壊的相互作用に結び付く。遺伝子操作においては、生物の生物性を情報理論的に観察すると同時に、品種改良というリスキーな取り組みが遂行されることになる。それ故、倫理観に浸る人間中心主義者たちは、こうしたトランス・ヒューマニズムの動向に対抗したリスク・コミュニケーションを繰り広げている。しかし、この人間中心主義的なリスク観察は、逆説的にも、新たなリスクを構成する契機を設けている。
遺伝子技術や生殖技術に対する人間中心主義的なリスク・コミュニケーションが実施される場合、注意しなければならないのは、これらの技術がもはや人間の範疇を超越しているということである。遺伝子技術や生殖技術が機能するのは、人間を人間的に改良する場合ではない。あくまでトランス・ヒューマニズム的な改良こそが、物を言うのである。
たとえば、遺伝子操作によって対象集団の生殖細胞を変異させるならば、それはもはや人間の改造ではない。人間とは別様の生物を創造するということになる。優生思想を危惧する者たちは、この別様の生物が人間を超克する生物であると確信しているとでも言うのだろうか。しかし、別様の生物の知的能力や身体能力を予期することなど、できるはずがない。オートポイエーシス的に作動する生命システムは、自律的に自己再生産活動を遂行している。システムが次に如何なる<システム>を構成するのかについては、無論システムそれ自体が決定することだ。コードとしての遺伝子は、この作動上の決定を方向付けているに過ぎない。つまり、遺伝子による生命システムの変異は、偶発的なのである。
技術的な生殖をテーマとした場合、そのコミュニケーションで言及されるリスクとは、障害児の誕生であろう。しかし、障害児をリスクとして認識するということは、包摂と排除の逆説を招く。そして、観察者が観察できるリスクとは、危険と区別される概念に過ぎない。つまり、リスク・コミュニケーションそれ自体が別様のリスクと危険を構成する可能性もある訳だ。
だからといって、政治に全てを託すことにも、背理がある。一体、福祉制度に何ができると言うのだろう。生殖技術を子の福祉のために活用するといった場合、そこにあるのは政治システムにおける権力的コミュニケーションである。と言うのも、政治システムが積極的に福祉のプラットフォームを構成しておけば、後の生殖技術の対象者を法律で規定された家族に限定することができるからだ。これは、生殖技術の遂行をコントロールする機会を政治システムに持たせるということである。言い換えれば、我々の生体情報が文字通り「生-政治」[1]における格好の餌食になってしまう訳だ。
要約して言えば、バイオテクノロジーの「デザイン」は、それ自体が誤りである訳ではない。バイオテクノロジーによるデザインを途中で断念すれば、新たな人間後の生物を構成できなくなる。その中途半端なデザインでは、人間を歪ませるが故に、非難されることであろう。しかし、だからこそバイオテクノロジーは、徹底すべきなのである。無論デザインの成功率は不確実だ。しかし、だからこそ挑戦すべきなのである。人間後の生物を人為的に構成することが誤りなのではない。人為的な構成を未完成のまま放棄するからこそ誤りなのだ。私のスタンスは、およそ以上のようなものとなる。
そこで我々は、別の区別を構成することによって、上述した区別の負担を免除することにしたい。我々が構成する区別とは、遺伝子中心主義と非遺伝子中心主義である。別の言い方をすれば、<遺伝子が生物の営みを主導しているというスタンス>と、<遺伝子的な要因とそれ以外の要因を機能的等価物と見なすスタンス>との区別である。この区別でポイントとなる差異の境界は、遺伝子型が人間の表現型に如何にして影響を与えるのかである。以下からは、この区別に則って、それぞれの言説の差異を観察していきたい。
したがって、遺伝子中心主義者たちは、表現型が遺伝子型の影響を受けていると言っても、遺伝子の影響は不可避ではないと考える。たとえば、外部環境との相互浸透によって表現型を更新することが可能である。その中でも特に、表現型への影響を主導的に方向付けるのが、遺伝子なのだ。
遺伝子型による表現型が生命システムの作動を主導的に方向付けていると主張した場合、その主張それ自体が既にミーム的な人為である可能性が生じてしまう。だが逆に、反遺伝子中心主義という人為的な主張は、遺伝子型による表現型として説明することも可能ではある。双方を肯定することもできれば、双方を否定することもできるのだ。
したがって、遺伝子中心主義者と反遺伝子中心主義者たちの議論は、永久に収拾が付かなくなる。パラドクスであるが故に、いずれの側も肯定可能となり、また否定可能となる。それ故、一方で遺伝子工学などの技術が進展するたびに、研究者たちは何度も脚光を浴びることになる。だが他方で、技術が失敗するたびに、研究者たちは何度も非難に晒されることになる。長期的に観れば、議論を堂々巡りに導くのは容易い。遺伝子中心主義者と反遺伝子中心主義者という区別は、無限後退的なパラドクスを構成しているのである。
このパラドクスを脱パラドクス化するためには、我々は別の区別を選択しなければならない。オートポイエーシス理論は、この脱パラドクス化による「負担免除」として役立つ。それによれば、遺伝子は、生命システムの作動を方向付けるコードである。ただし、それはシステム作動を方向付けるに過ぎず、作動を決定付けている訳ではない。如何なる自己再生産活動を織り成すのかについては、生命システムそれ自体が決定する。遺伝子は、その決定を方向付ける機能を持つ訳だ。機能とは、諸可能性の複合である。それ故この理論は、潜在的な遺伝子のポテンシャルも加味する。こうしたアンビギュイティなスタンスは、遺伝子中心主義にも反遺伝子中心主義にも偏らない考察を可能とする。我々は、この理論を採用することで、双方の対立に伴った無限後退から脱却することが可能になるだろう。
[2] 遺伝子とミームの区別については、次の文献を参照。
リチャード・ドーキンス (著)、日高敏隆 (訳)、岸由二 (訳)、羽田節子 (訳)、垂水雄二 (訳) 『利己的な遺伝子 <増補新装版>』紀伊國屋書店; 増補新装版 (2006)、リチャード・ブロディ (著)、森弘之 (訳)『ミーム―心を操るウイルス』講談社 (1998)、スーザン・ブラックモア (著)、垂水雄二 (訳)『ミーム・マシンとしての私(上)』草思社 (2000)、ダニエル・C. デネット (著)、山口泰司 (訳)『解明される意識』青土社 (1997)、pp249-267。
[3] 遺伝子中心主義者の主張としては、次の文献を参照。
内井惣七(著)『進化論と倫理』世界思想社(1996)、金子隆一(著)『ゲノム解読がもたらす未来』洋泉社(2001)、佐倉統(著)『遺伝子 VSミーム――教育・環境・民族対立』廣済堂出版(2001)、リチャード・ドーキンス(著)、日高敏隆 (訳)、遠藤知二 (訳)、遠藤彰(訳)『延長された表現型』紀伊國屋書店(1987)、リー.M.シルヴァー(著)、東江一紀(訳)、渡会圭子(訳)、真喜志順子(訳)『複製されるヒト』翔泳社(1998)。
[4] 反遺伝子中心主義者たちの主張については、次の文献を参照。
ブライアン・アップルヤード (著)、山下篤子 (訳)『優生学の復活?―遺伝子中心主義の行方』毎日新聞社 (1999)、スティーブン・グールド(著)、鈴木善次(訳)、森脇靖子(訳)『人間の測りまちがい――差別の科学史』河出書房新社(1998)、池田清彦(著)、金森修(著)『遺伝子改造社会 あなたはどうする』洋泉社(2001)、松田純(著)『遺伝子技術の進展と人間の未来 -ドイツ生命環境倫理学に学ぶ-』知泉書館(2005)