注)今後の方針を選定するために、思ったことを徒然と書いています。
専ら『ウェブページ版への序章』、『ポスト・ヒューマンの魔術書』、『ポスト・ヒューマンの境界侵犯』、そして『ポスト・ヒューマンの最終戦争』で記述した各記事は、全て「1ページでは完結しない記事」でした。1ページだけ読んでみて意味不明だった読者もいたでしょう。あるいは、このウェブサイトの題名だけから短絡して、一連の文章を宗教パンフレットだと思い込んだ馬鹿もいたことでしょう(まあ実際にいたんですが)。とはいえ、私は「1ページでは完結しない記事」を意図的に記述しました。作為的に書いたのです。何故か。
ネオ・サイバネティクス的に言えば、盲点無き観察はあり得ません。ハイパーテクストで1ページ作成した段階では、既にその記事には盲点が生じています。この盲点を<埋め合わせ>するのが、別の記事を指し示すアンカーリンクです。
ところが、ある記事の盲点を別の記事で<埋め合わせ>した場合、当然その<埋め合わせ>として採用された記事にも盲点が生じます。どんな観察にも盲点が伴うのですから、盲点を<埋め合わせ>するという振る舞いにもまた、別の盲点が伴います。したがって、その<埋め合わせ>の記事の盲点を<埋め合わせ>するために、またしても新たな記事へのアンカーリンクが必要になります。
こういった盲点の<埋め合わせ>と派生とを繰り返していくうちに、各記事の間にネットワークが生れます。これを「間テクスト性」と呼びます。『ウェブページ版への序章』でも述べた通り、活字出版の記述形式ではこれが困難でした。ある本の盲点を<埋め合わせ>しているであろう参考文献を遡及するためには、その本を入手しなければなりません。本屋ならば金銭面でのコストが、図書館であれば時間的なコストが掛かります。
ハイパーテクストは、この活字出版の記述形式の限界を克服しています。アンカーリンクを貼るだけで、別の記事を指し示すことが可能だからです。コストは掛かりません。ですから逆に言えば、ウェブ上で「1ページで完結してしまう記事」を書くというのは、本当は勿体無いことなのです。せめて別のブログに言及リンク付きのトラックバックを送りたいところ。「1ページで完結してしまう記事」を書くなら、それこそ「チラシの裏」にでも書いていれば良いのです。
さて、『ウェブページ版への序章』、『ポスト・ヒューマンの魔術書』、『ポスト・ヒューマンの境界侵犯』、そして『ポスト・ヒューマンの最終戦争』の四つの文章は、互いに「間テクスト性」を保持しています。ある記事の盲点を別の記事が<埋め合わせ>、その別の記事の盲点を更に別の記事が<埋め合わせ>することで、連鎖しているのです。しかし、完全なる盲点の<埋め合わせ>は、不可能です。「私は完全に盲点を<埋め合わせ>することに成功しましたよ」という自己観察にもまた、別の盲点が伴うからです。ですから、上記の四つの文章にも、盲点が伴っています。それも、私は既にこの四つの文章を「完結した文章」として認識しているので、私の知らないところに盲点があるはずです。
今後、全ての盲点を<埋め合わせ>するのは無理だとしても、盲点を極小化することに挑戦することは可能です。しかし、それは無限後退というものです。私がポスト・ヒューマンに没入することに、何の必然性もありません。様相論的に言えば、可能態の問題であって、必然態とは無縁なのです。したがって私は、今後ポスト・ヒューマンとは無関係のテーマを論じることもできます。無限後退のパラドクスを脱パラドクス化するということです。
とはいえ、ハイパーテクストのもう一つの利点は、リアルタイムで更新することができるということです。既存の記事の盲点が発覚した時に、私はその盲点を<埋め合わせ>するべく再記述することができます。そんな訳で、時折ポスト・ヒューマンに言及するのも一つの選択肢として有効です。
ならば、ポスト・ヒューマンに没入することなく、ポスト・ヒューマンと全く無縁とは言い切れない分野について記述していくことが、理想的ではないかと思います。接続可能性の問題です。具体的なテーマ選定としては、以下のようなものが挙げられます。
さて、何にしようか、迷うところです。