ウェブページ版への序章、ポスト・ヒューマンの魔術書、ポスト・ヒューマンの境界侵犯と読んで来た方なら、行く末を推測することができるかもしれません。学者や教育者になるほどの素養の持ち主ならば特に、これがパラドクス化と脱パラドクス化の循環的な連続であることに、気付けたはずです。そして私が、初っ端からニクラス・ルーマンの次のような言葉を引用していた理由も、察することができるでしょう。
「だからパラドクスなのだ。いかなる努力をもってしても、開始し始めたその所で―つまり解き放たれたと思った問題において―再び終りが理解される。」(1)
もし「人類総動物化計画」などという言葉に過敏に反応する者がいるならば、私は指差して笑うでしょう。問題は、この計画が可能であるということではありません。真の問題は、この計画が可能であり不可能であるというパラドクスにあるのですから。
こういった流れで(どういった流れだよ)書いていく予定なので、目次は以下のようになります。
- 序論にかえて:「人類総動物化計画」の実行可能性
- 電気刺激の歴史
- 「側頭葉てんかん」と「自動症」の歴史
- 「環境管理型権力」における理想の動物としての「エピレプシー」
- エピレプシー化の方法論的なアポリア
- サイクロトロン共鳴による攪乱
- 予備的に必要となる生体と脳波の情報
- 「人類総動物化計画」に対する社会的システムの反撃
- 何故「人類総動物化計画」は失敗するのか
- ポスト・ヒューマンの消滅
- ポスト・ヒューマンの再生
- 再考:ポスト・ヒューマンの消滅
- 再考:ポスト・ヒューマンの再生
- 結語:<人間的な非人間化>と<非人間的な人間化>の循環的パラドクス
注釈
(1)ニクラス・ルーマン(著)、土方昭 (訳)、土方透 (訳)『宗教論--現代社会における宗教の可能性』法政大学出版局 (1994)、p73。
この記事の前提となっている理論的考察
- ポスト・ヒューマンの哲学
- ポスト・ヒューマンの人間科学
- バイオ技術の「デザイン」
- メディア現実の「デザイン」
- 脳神経の「デザイン」
- ポスト・ヒューマンの生政治