前述したように、「ウィキペディア日本語版」のようなハイパーテクストは、活字出版による書物の限界を埋め合わせることができる。しかしながら現状、「ウィキペディア日本語版」が<知的な振る舞い>を魅せているとは思えない。むしろ「ウィキペディア日本語版」の記述者も読者も、「無知」を曝け出していると言った方が適切だろう。
これは単なる挑発ではない。「ウィキペディア日本語版」の管理者である吉沢英明自身も認めていることなのだ。吉沢によると、「ウィキペディア日本語版」は学術的な内容に弱いらしい。海外版のウィキペディアも例外なく、各ページの学術的な質は玉石混交と呼べる程度のものだ。それ故、ウィキペディアを統括する存在である「ウィキメディア財団」は、学者を取り入れた上で百科事典の学術的な質を高めようと試みている 。この関連から吉沢は、明らかにウィキペディアに学術的専門家による学術的な所見が記述されることを期待している模様だ [1]。
だが、パラドクスの隠蔽に成功したということは、新たなパラドクスの発見が待ち伏せているということである。無論「ウィキペディア日本語版」にも、パラドクスは伴う。それは、基本原則を貫くが故のパラドクスである。第一の原則である「検証可能性」が示しているのは、結局のところ、ウィキペディアも現行の学術システムやマスメディアの情報源に依存しているということだ。活字出版された書物のパラドクスを隠蔽することを可能としているウィキペディアは、自らのパラドクスを隠蔽するために、逆に書物に依存することになる。ウィキペディアに依存する閲覧者たちは、再度書物のパラドクスに対応することになる。ウィキペディアの「文字」だけを鵜呑みにするのは、パラドクスに没入することを意味するのである。
第二の原則である「中立的観点」は、直ぐに自己言及的パラドクスに陥る。ある見解を中立的に観察するためには、それ以前にまず「中立性に対する見解」を中立的に観察しておかなければならない。それどころか、「<中立性に対する見解>に対する見解」を中立的に観察する必要がある。もしこうしたパラドクスを隠蔽するために別のウェブページを引き合いに出すというならば、無論持ち前の中立な観点から別のウェブページをナヴィゲートして貰いたいところだ。
そして最後の原則である「独自の調査ではないこと」は、上記の二つのパラドクス化を促進させていると言える。ウィキペディアの記述者が独自の調査内容を全く公開しないのならば、記事内容の恣意性は大幅に縮減される。しかし、逆に言えば、こうしたスタンスは従来の書物への過度な没入を意味する。既に権威ある情報源から発せられた情報のみを許容するというウィキペディアのスタンスは、確かに妥当である。だがそれは、権威ある情報源から発せられた情報の是非を問わないという、思考停止状態を選択しているということなのだ。ウィキペディアにとって、「権威主義的なボランティア」というパラドクスは、不可避である。
「ウィキペディア日本語版」の落ち度はこれだけでは済まされない。管理者吉沢は、想像以上に墓穴を掘り、深き墓穴で嘆き苦しんでいるようだ。上記のパラドクスに加えて更に我々を悩ますのは、「ウィキペディア日本語版」が集合知のメルクマールとして注目されているが故のパラドクスである。「ウィキペディア日本語版」は、情報や知識を万人に共有するアーキテクチャとして注目されている。今や何をGoogle検索して観ても、大抵は「ウィキペディア日本語版」の解説が検索結果に表示される。膨大な被リンク数が、「ウィキペディア日本語版」のページランクを底上げしているという訳だ。それほど閲覧者の期待が大きいということなのであろう。言わば「ウィキペディア日本語版」は、集合知や知識社会といったオプティミズムを象徴的に顕在化させているのである。
しばしば知識社会や集合知という概念は、万人に情報や知識が行き渡るというイメージを構成する。誰かがウィキペディアの記事を更新すれば、聡明なる人類の英知も更新されたと言う訳だ。しかし、知識社会は、「無知社会」である。集合知は、「集合的な無知」に過ぎない。たとえば、上記の三大原則に則ったユーザーが、「ウィキペディア日本語版」に「量子コンピュータ」に関する情報や知識を記述したとしよう。ウィキペディア全体としての情報量や知識量は、確かに増加するだろう。だが、書物から習得した学知や素養を持たない一般大衆のレパートリーが増えたとは限らない。むしろ一般大衆は、自分が「量子コンピュータ」に「無知」であったということに気付く羽目になる。「ウィキペディア日本語版」内の「最近更新されたページ」[6]は、常日頃投稿される最新記事をお披露目するに留まらず、閲覧者の「無知」を絶え間なく宣告し続けるメディアなのだ。
「付加価値」を追い求めるネットワーク理想主義者たちは、<インタラクティヴ>に無知を拡散していく。一つの書物を<輪読>する似非研究者たちは、『社会システム理論』、『千のプラトー』、そして『不思議の環』といった三大書物の失敗を知らない。こうした背景に無知なユーザーたちは、平気で集合知のメルクマールとなった「ウィキペディア日本語版」のパラドクスに没入している。たとえページの下部に参考文献が記述されていたとしても、「ウィキペディア日本語版」の記述だけで満足するユーザーもいるだろう。仮に参考文献まで遡及して考察する真面目なユーザーがいたとしても、そのユーザーに待っているのは<グーテンベルク銀河系>における上述したパラドクスである。
何か一つを知るということは、別の何かを見落とすということである。言い換えれば、知識の獲得と盲点の形成は、地と図の関係なのだ。つまり、「近代の知は、「外部の」世界を引き合いに出すのではなく、別の知を引き合いに出す。私は、自分の小さな箱に明かりをともすだけで他のすべてを無視する(つまりブラックボックス化)という条件の下でのみ、知の探究者として一人前になれるのだ。そこから生まれるのは、理解しないままで利用せざるをえないような知である」[8]。
つまり、「ウィキペディア日本語版」で記事を書こうとする者は、読者(ユーザー)が「しっかりとした<知ったかぶりの自己欺瞞>」を抱くことができるように、レトリックを配備する必要があるということだ。たとえば、政治家の演説は、「ウィキペディア日本語版」の記述者たちにとって、参考になるモデルである。政治家たちは、たとえ中身の無い話であっても、共感を得られ易いテーマ(自然環境問題、犯罪対策、金、人権などなど)を選択することで、無知でも無理解でも意思決定の集約を目指すことができる。ムズカシイお話は、とりあえず「実用性が無いから却下」と言っておけば話さずに済む(!)その他にも、「豊かになります」、「便利ですよ」、「皆さんの日常に合致した云々・・・」。こうした魔術的な呪文を唱えておけば、とりあえず自分が「無知」であることを忘れることはできるだろう。
「ウィキペディア日本語版」が無知社会における集合的な無知を構成しているとするなら、「ウィキペディア日本語版」は、皆が同レベルの「無知」で安堵に浸ることができる、絶好の場所となるはずだ。これは、活字出版的な書物には無い利点である。「言い換えれば、われわれに必要なのは知を増やすことではなく、知を造形することである。これを『知のデザイン』と名づけておこう。『教養』といったコンセプトや『本』のようなメディアは、ここでは何の役にも立たないのだ」[9]。
[2] ノルベルト・ボルツ(著)、識名章喜(訳)、足立典子(訳)『グーテンベルク銀河系の終焉 -新しいコミュニケーションのすがた』法政大学出版局(1999)、p13を参照。
[3] 吉沢英明(編)『wikipedia検証可能性 - Wikipedia』Wikipedia日本語版(2008)、URL: http://ja.wikipedia.org/wiki/Wikipedia:%E6%A4%9C%E8%A8%BC%E5%8F%AF%E8%83%BD%E6%80%A7、閲覧日時:2008/06/24 18:09
[4] 吉沢英明(編)『wikipedia中立的な観点 - Wikipedia』Wikipedia日本語版(2008)、URL:http://ja.wikipedia.org/wiki/Wikipedia:%E4%B8%AD%E7%AB%8B%E7%9A%84%E3%81%AA%E8%A6%B3%E7%82%B9、閲覧日時:2008/06/24 18:09
[5] 吉沢英明(編)『wikipedia独自研究は載せない - Wikipedia』Wikipedia日本語版(2008)、URL:http://ja.wikipedia.org/wiki/WP:NOR 、閲覧日時:2008/06/24 18:09
[6] 吉沢英明(編)『wikipedia中立的な観点 - Wikipedia』Wikipedia日本語版(2008)、URL: http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%89%B9%E5%88%A5:RecentChanges、閲覧日時:2008/06/24 18:09
[7] ニクラス・ルーマン(著)、土方昭 (訳)、土方透 (訳)『宗教論--現代社会における宗教の可能性』法政大学出版局 (1994)、p73を参照。
[8] ノルベルト・ボルツ(著)、村上淳一(訳)『意味に餓える社会』東京大学出版会(1998)、p52を参照。
[9] ノルベルト・ボルツ(著)、村上淳一(訳)『意味に餓える社会』東京大学出版会(1998)、p230を参照。
このブログ記事を参照しているブログ一覧: 【2】「ウィキペディア日本語版」は「無知」を量産しながら「権威主義的なボランティア」を気取るのです。
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テストさんからのコメント(2008年7月17日 19:45)
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