ポスト・ヒューマンの魔術師

「自称人間」の時代からポスト・ヒューマンの時代へ。

私のような平凡なブロガーには【絵文録ことのは】の真似をすることはできませんよ。

 【絵文録ことのは】の『コメント・トラックバックは「原則として削除」というルールを掲げます』(1)は、私が以前書いた『finalvent氏の「ブログ・クソッタレ撲滅ルール」の致命的な弱点。』を巧い具合に補っていると思う。こうした「理路整然とした待ち構え」が可能であることは、私にとって盲点であった。この「原則として削除」のルールを掲げておけば、トラックバックの削除をテーマとした<でっち上げ>も無効化されてしまうだろう。良い案だ。

 しかし、私のように、非アルファブロガーである者たちは、気をつけた方が良い。私のブログのように、全く知れ渡っていないブログがこの「原則として削除」を採用してしまうと、孤独感に悩まされてしまうからだ(笑)

これまでのネタ記事

 ここで本題に入る前に、私のスタンスを明確にしておこう。別に大した記事ではないので、読まなくても良い。
  •  『日記型ブログは宗教教義団体となりました。』では、機能等価主義の観点から、ブログの機能と宗教の機能が代価可能な等価物であることを主張した。たとえば、リアルで充足していない人々は、宗教的な地位代価機能によって、いささか現実逃避的に「メディア現実」で威張り尽くすことを可能にしている。大人びた「議論」を実施する<背伸びブロガー>たちは、記述の形式を学術的な意見(ドクサ)から宗教的な教義(ドグマ)へと切り替えることで、低レベルな堂々巡りに終わりを告げることが可能になる
  •  『「ネガコメ」を批判する=「ネガコメ」というパラドクスの前に、「ネガコメ」拒絶者は何ができるのか?』では、「ネガコメ」への過剰なアレルギー体質は、それ自体がネガティヴだということを説明した。「ネガコメ」には、ネガティヴィティのみならず、ポジティヴィティも含まれている。たとえば「批判」は、自分の盲点を明確にしてくれる
  •  『takapons氏のスパルタ的な言葉遊びを超えて、無知な自分に誇りを持とう。』では、学術的リテラシーの差異や準拠先のトライブの差異を背景とする以上、ブログを通じて「分かること」や「分かり合う」ことは虚構であるという観点を説明した。構成主義的認識論を遡る限り、「理解すること」や「合意を形成すること」を目指すことには、必然性は無い。むしろ、「理解したつもりになること」と「合意を形成したつもりになること」が重要になる。他者による価値のある「ネガコメ=批判」から自分自身の盲点が明らかになったのならば、それを利用すれば良い。だが、他者による「ネガコメ」が救い様も無く無価値な欺瞞に満ちているのであれば、宗教的な教義機能を利用することで、終わらせれば良い。ただしこの判断は、無論当該ブロガーの「理解したつもり」に依存する。この記事では、こうした不真面目でかつ柔軟な姿勢が必要になるということを説明していた。
  •  最後に、『「価値の無いブログ」と「コピペ・ブログ」の未来像』では、価値の有無や<リジットな著作権>と<ルーズな著作権>に言及することで、現代ブログ界は方向性を喪失しているということを説明した。

付言しておくと、以上のようなスタンスは、全てネオ・フランクフルト学派の「作為の学」に依拠するものである。これについては、ここでは省略しても文意は伝わるだろう。いずれ説明する。

本題:私のような平凡なブロガーはどうすればいい?

 以上のようなスタンスから要約して言えば、「原則として削除」のルール付けは、宗教的な教義による堂々巡りの遮断という機能に接続することができる。とりわけ<背伸びブロガー>の大人びた「議論」は、宗教戦争の如く、収拾が付かない。この延長線上の過程で、「主客逆転の勘違い」(2)が生じていると考えられる。だから勘違い野郎の居直りを防止するという意味で、「原則として削除」のルールが有効に機能するという訳だ。「少なくとも、自分のブログは、わたしの庭である。それにも関わらず、延々と批判に応じ「続けなければならない」という、暴力的な圧力は弱めたいと思うから、このように述べているのである」(3)。

 しかし、宗教的な教義機能による堂々巡りの遮断は、社会学で長らく論じられてきた「包摂と排除の逆説」を呼び起こす。「宗教は、社会全体のレベルで、統合的要因として働き、また個人のレベルでは、動機付けの要因として働くと考えられてきた。どちらのレベルにおいても、宗教は、意味の意味を、また意味深い「究極の真理」を提供してきた」(4)。しかし、宗教は議論や闘争を呼び込む。非統合的要因もあるのだ。また、個人レベルでもまた、宗教へのコミットメントに疑念を抱く者もいる。万人を一つの宗教に包摂することはできない。そこには漏れがある。包摂の逆は排除だ。だから宗教は、排除作用としても立ち上がる。しかし逆に言えば、排除作用があるからこそ、包摂への動機付けが生れるのである。「だからパラドクスなのだ。いかなる努力をもってしても、開始し始めたその所で--つまり解き放たれたと思った問題において--再び終りが理解される」(5)。

 以上のようなシステム理論的な考察を後ろ盾にするならば、私の見解は、非アルファブロガーは「原則として削除」という運営スタンスを大々的に公開すべきではないということに結び付く。ブロガーの運営スタンスをドグマティークに解説してしまえば、閲覧者を遠ざけてしまうということに繋がる。「原則として削除」というトラックバックへのタブー視は、無論明示的に行なわれている。しかし、明示的であるからこそ、閲覧者の遠ざけに結び付いてしまうのである。明示的なタブー化は、包摂と排除の逆説を浮き彫りにしてしまう。しかし暗示的なタブー化ならば、パラドクスの隠蔽が可能になる。<暗示的なタブー化>と<タブー化することで可能になる出来レース>は、地と図の関係なのだ。したがって、「暗号化と、謎に満ちた<ほのめかし>は、その表現方法に特有の<コミュニケーションについてのコミュニケーション>というやり方であり、宗派間の度重なる争いと粗探し、いろいろな箇条と戦争が一切の教義の信用を失墜させた後に、このやり方こそが宗教だと感じられ、別扱いされたのであった」(6)。

 全く以って有名でも何でもない私のようなブロガーたちは、むしろ「ゴミのようなトラックバック」への認識を<暗示的なタブー化>までに抑えておくべきであろう。そして、<タブー化することで可能になる出来レース>の恩恵を享受すべきだ。

 当たり前の話ではあるが、たとえば言及付きのトラックバックを受信すれば、そのブログが他者により閲覧される可能性は高まることになる。たとえ送られるトラックバックがゴミだとしても、そのゴミのようなトラックバックは、ゴミの送信者以外の優秀な観察者によって閲覧される可能性を高めてくれているのである。

 ゴミのようなトラックバックの送り手の相手をする必要は無い。だが、削除するのは惜しい。送り手本人の存在それ自体は自分にとって全く役に立たないだろうが、その言及付きトラックバックの記事は、別の優秀な人物が閲覧する可能性を高めてくれる。これは非アルファブロガーにとって有り難いことであろう。

 ゴミのようなトラックバックは、優秀な人物とのコミュニケーション・チャンスを拡張してくれる。トラックバックの包摂と排除という二項図式を棄却することが、逆説的にも、優秀なトラックバックを包摂する可能性を高めているのである。

中傷的なソーシャルブックマークの逆説

 最後に、「狐の王国」のKoshianX氏の有り難いお言葉を引用することで、この不真面目な記事を締め括ることにしておきたい。

  「ついでに言えばソーシャルブックマークでブクマするってのはそれだけで1以上の被リンクを増やすし、b.hatena.ne.jpのページランクの高さもあって検索にもひっかかりやすくなる。

  ここまで言えばわかるだろうか。

  そう、いわゆるdisりやネガティブコメントの類は、やっても不快感を生むだけどころか、その記事やブログをよりウェブ上で「強く」しているのである。

  彼らは知ってか知らずか、自分がdisってる対象を「人気ブログ」に押し上げる手伝いをしてるのだ。こういうのを「ネットリテラシーが無い」というのだろう。」
(KoshianX(著)『糞ブログがはびこるのはお前のせい──あるいは応援ブクマのススメ狐の王国(2008)、URL:http://d.hatena.ne.jp/KoshianX/20080602/1212434297、閲覧日時:2008/06/27 11:33)

 もし非アルファブロガーがゴミのようなトラックバックに関して悩んでいるのならば、松永氏のルールを真似るよりも、KoshianX氏が説明されているアイロニーを逆手に取ることを考えた方がマシだろう。初めに「言及リンクの無いトラックバックは表示されません」と述べておくだけで良い。そうすれば、貴方のブログ記事を批判したくて堪らない積極的なブロガーたちが、貴方のブログ記事に言及リンク付きのトラックバックを送信してくれる。そのトラックバックがゴミだとしても、その言及リンクは送り手とは別の優秀な人物を招き入れる契機となる。有名でも何でもないブロガーは、トラックバックの是非を巡る運営スタンスをドグマティークに語るよりも、むしろトラックバックされそうな記事をただひたすら書き続けていた方が実りがあるという訳だ。

注釈

(1)、(2)、(3)松永英明(著)『コメント・トラックバックは「原則として削除」というルールを掲げます』ことのは編集室(2008)を参照。(閲覧日時:2008/06/27 11:33)

(4)ニクラス・ルーマン(著)、土方透(訳)、大澤善信(訳)『自己言及性について』国文社(1996)、p143を参照。

(5)ニクラス・ルーマン(著)、土方昭 (訳)、土方透 (訳)『宗教論--現代社会における宗教の可能性』法政大学出版局 (1994)、p73を参照。

(6)ニクラス・ルーマン(著)、村上淳一(訳)『ポストヒューマンの人間論―[後期ルーマン論集]』東京大学出版局(2007)、p192を参照。

関連ブログ

・ekken(著)『寄せられたトラックバックがゴミと思う感覚って、もうとっくに終わったものだと思っていた』ekken(2008)(閲覧日時:2008/06/27 18:34)

この記事の前提となっている理論的考察

  1. ポスト・ヒューマンの哲学
  2. ポスト・ヒューマンの人間科学
  3. バイオ技術の「デザイン」
  4. メディア現実の「デザイン」
  5. 脳神経の「デザイン」

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